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太陽と月に背いて [l'histoires d’hommes]

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アルチュール・ランボーは、十代のころから家出を繰り返していました。
詩を書くくらい繊細で敏感な彼には、軍人だった父が厳し過ぎたのかもしれません。

te3.jpg左がヴェルレーヌ、その隣がランボー。

17歳でパリへ家出して詩人のヴェルレーヌと出会ったとき、運命が大きく変わります。
彼とは同性愛の関係になり、ヴェルレーヌはランボーのために妻子を捨てて、ロンドンやブリュッセルをともに放浪します。

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19歳で別れ話がこじれて、ヴェルレーヌはランボーに発砲し、一発が左手首に当たる傷害事件に
発展しました。それからは再びランボーは放浪をはじめます。

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アラビア半島から紅海を過ぎてアフリカに至るまで、さまざまな職業を転々としながら、彼は
あてどない旅をつづけました。そして32歳になるころには武器商人に。

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そして37歳の時、骨肉種が全身に転移して、命をおとしました。

夭折の詩人というか、詩集はそんなに出していないのに、彼の文学的インパクトは絶大です。

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そんなランボーの半生を描いた映画が、『Total Eclipse』。

皆既食、という原題です。

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『ギルバート・グレイプ』で知的障害のある役を演じたディカプリオの演技のうまさには驚きましたが、
この作品は、まるで本物のランボーがそうであったかのように見るものに錯覚させるほどに迫真の演技を
見せてくれています。

高校生のころに、ランボーの詩集が大好きでした(翻訳でしたが;;;)。
破滅的で悠久で、自由で何物にも束縛されない奔放さに魅了されました。
だからこの映画を見たときに、あ、本当にランボーってこんな人物だったのかもしれない、と思ってしまいました。

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詩人ヴェルレーヌはランボーの才能に激しく嫉妬しながらも彼に強く惹かれていきます。
激情ともいえるまっすぐなランボーの、ヴェルレーヌに向ける感情はすごいのです。
ヴェルレーヌはランボーを愛しながらも、その才能へ嫉妬してしまいます。
そして妻とランボーの間で苦悩するのです。

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ヴェルレーヌにとって、ランボーは太陽。妻は月。

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おそらくは、ディカプリオの作品の中でも一、二を争う素晴らしい作品であり、彼の美しさの頂点を極めた映画だと思います。



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なんていうか・・・ [l'histoires d’hommes]

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15世紀のフェラーラ侯爵・ニコロ3世(1383-1441)は、子供がたくさんいたそうです。
後宮3000人といわれた玄宗皇帝やトルコのスルタンもかなわないかもしれないほどにね。
まあ、「後宮3000人」は数が多いことのたとえで、そんなにいたわけではないと思われますが。

一番目の妻はペストで死亡(子供なし)。
二番目は3人の子を産み、
三番目は2人、
11人の非嫡出子がいた。

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というのは、公式の記録。一番目の妻との間には子供がいなかったので、16人・・・・。
それのどこが多いのかというと、好みの美女がいれば連れてきて寝室に引き入れることを
続けたために、正式な数はわからないものの、300人くらいの子供がいたそうです。

自分の子供の名前は何人まで知っていたでしょうね?

a.nicolo.Parisina,ugo.jpg息子と妻のロマンスをでっちあげ;;;

一度は新しい女性と結婚したかったが妻が離婚を承諾しなかったので、自分の息子(非嫡出子)の
ウーゴとの姦通罪をでっちあげて、2人を処刑してしまったそうです。

なんとも、業の深い君主様です。

鉄仮面の男 [l'histoires d’hommes]

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彼の本名も出自も、なにもこの世には出回っていません。
人々の想像力をもっとも掻き立てる、フランス史上、一番有名な謎の人物といえるでしょう。

デュマを始め、多くの人々がこの男の謎に興味を持ち、本や映画にしてきました。
隠されるとよけいに知りたくなるという、人の好奇心を大いに刺激する要素を持つ存在だからでしょう。

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1698年の夏、バスティーユ牢獄にある一人の囚人が収監されます。
奇妙なことに、この男は布の仮面で顔を隠し、監獄張が直々に丁寧に世話をしていました。

人前では決して仮面を外そうとはしません。
そして誰もこの男の正体を探ってはいけないという、ルイ14世からの王命も下っていたのです。

王直々に正体を探るなとの命令が下ったために、王の近親者、しかも表ざたにはできない人物なのでは
ないかとうわさされました。

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ルイ13世の庶子で、ルイ14世の異母兄だったとか、ルイ14世の母后の不倫の子供であるとか。
この男は30数年間も、人生のほとんどをあちこちの牢獄の中で暮らしていました。

しかも、人前では決して仮面を外すことなく。
それなのに服は上等な絹を着て、食事も貴族のように豪華です。

太陽王と呼ばれた、ブルボン王朝最盛期の統治者であったルイ14世。
領土を拡大し、ヴェルサイユ宮殿を作り上げました。

この仮面の男はルイ14世の血縁者で、正当な身分ではなく、しかし王とよく似ていたために仮面を外すことなく幽閉されていたというのが一般的な予測なのです。

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ルイ14世は、スペイン王女を母に、フランス王を父に生まれました。
両親は幼いころに政略結婚し、長年不仲でした。母妃は37歳で彼を産んだので、当時としてはかなりの
高齢出産でした。23年も子供ができなかったので、ルイ13世の子ではなく、宰相マザランの子ではないと
のうわさもあったようです。 → http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2012-01-07-5

マザランは生涯この王に仕えたので、そんな噂もありました。スペイン王女(ルイ14世にはイトコに当たります)との縁談が持ち上がったとき、ルイ14世はマザランの姪を恋人にしていたため、縁談を断りました。
でもマザランは、無理やり二人の仲を裂いてルイ14世をスペイン王女と結婚させたそうです。

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そんな危険なうわさがあったからなのか、あるいはマザランの仕業なのか、仮面の男は世間から隔絶されて、牢獄の中で優雅な暮らしをさせられていたのです。

デュマはこの男をルイ14世の双子の弟として、『鉄仮面の男』という物語を書きました。
最後に死んでしまった王の代わりにこの鉄仮面の男が王になり替わるという衝撃のどんでん返しです。

本当は布製のマスクをしていたらしいですが、いつしか鉄仮面ということになってしまったのは、やはり
この人物の正体が永遠の謎だからでしょうか。神秘のベールが、鉄仮面となったのですね。

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1703年の11月に、仮面の男は獄中で亡くなったことにされています。
男の正体を知らされていたであろう監獄長もルイ14世も、そしてごく少数の大臣たちも、この男の正体をついに明かすことなく亡くなったので、結局正体は謎のままです。

いまならDNA鑑定で正体がわかるでしょうに・・・?



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フェルゼン伯爵の最期 [l'histoires d’hommes]

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ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵は、スウェーデンの貴族でした。

フランス王ルイ16世妃のマリー・アントワネットの愛人であったと言われています。
フランス革命によって追い詰められたルイ一家を、密かに逃亡させようとしたことは
よく知られています。→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-07-16-1

結局、計画は失敗に終わり、ルイ16世とマリー・アントワネットに対する民衆の憎しみは
この逃亡計画によって余計に増してしまいます。

二人は断頭台の露と消えました。
その後のフェルゼン伯はというと・・・

ある時、フェルゼン伯はスウェーデンの皇太子のお供をしていました。
その最中に、皇太子が脳溢血で突然死してしまいました。

フェルゼン伯が皇太子を暗殺したのだという噂が広まりました。
彼はもちろん、ばからしい噂だと否定しました。
そして皇太子の葬儀に出席したのです。

ある人が、彼の馬車に石を投げました。
それが発端となって、次々に暴徒と化した民衆が彼の馬車を襲い、
彼を引きずり出して暴行を加え始めました。

あわれ伯爵は、民衆に踏み殺され、排水溝に捨てられたと言います。

上宮厩戸豊聡耳皇子 [l'histoires d’hommes]

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安田靫彦の『夢殿』は、ひとめぼれした絵です。

安田靫彦の絵を始めてみたのは、中学生の時、国語便覧の『飛鳥の春の額田王』でした。
静謐ですっきりとしていて、気品にあふれていて美しい。彼の作品のほとんどがそうですね。

歴史画といえば、私は彼の絵が一番好きになりました。
この絵は聖徳太子が、法隆寺の夢殿で瞑想している姿を描いたものだそうです。

瞑想していると、仏教の聖僧が現れて、太子を諭すという・・・・・。

ぴんと伸ばした背筋が、なんとすがすがしいことでしょう。

本当の名は「上宮厩戸豊聡耳皇子」(かみつみやのうまやどのとよとみみのみこ)。
ちょうど聖徳太子の時代に仏教が半島から伝わったと学校では習いましたが、もうすでに彼のおじいちゃんの
時代には伝わってきていました。

用明天皇の皇子で、名前からすると賢い皇子だったようですね。
当時は蘇我氏と物部氏の権力争いの真っただ中。

蘇我氏はまるでギャングですねぇ。政敵であれば天皇さえも暗殺しちゃう(屮゜Д゜)屮 アワワ;;;;
そんな蘇我氏と遠縁で娘婿でもある皇子は、がっつり蘇我氏側。
日本初の女帝であった推古天皇も蘇我馬子の姪ですから、蘇我氏の全盛期ですね。

冠位十二階、憲法十七条、法隆寺建立、六角堂建立。
いろいろなエピソードがありますが、天皇でなかった分、政治的手腕を恵まれた環境で発揮できたのかも
知れないですね。

49歳の若さでなくなってしまいますが、皇子が亡くなった時、民衆は深く悲しんだと言われます。
天皇にならずともそれだけ徳が高かったから、聖徳太子と呼ばれたのかもしれないですね。
この呼び名が時代考証と合わないとか、太子自体が存在しなかったのではという説もありますが、
古代なだけに神秘に包まれて、かえって良いかもしれないです。


この絵は、国立博物館蔵です。

稀代のアヴァンチェリチェ [l'histoires d’hommes]

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彼の出生は定かではありませんが、1743年ごろ、シチリアの靴屋の子供として生まれたようです。

名前は、ジュゼッペ・バルサモ。 この本名だけを聞いて彼の正体をわかった方は、相当の通ですね!!
彼は幼いころに父を亡くし、伯父に引き取られますが、街でも名だたる悪がきの不良になります。
そしてまだティーンネイジャーの時に殺人事件にかかわって故郷を逃亡しました。

彼は背が低くずんぐりした体形の、お世辞にも美形とは言えない男でしたが、知能は高く、口がうまく、
あらゆる悪事を堂々と(?)行う度胸を持ち合わせていました。

のちに彼は大ぼら吹きとなり、自分の経歴に壮大な脚色をして吹聴しますが、どこまでが嘘かホントか
・・・考えるだけムダですね☆

やがて彼はローマでドンナ・ロレンツァという美女と結婚します。
そして二人で怪しげな占いをしたり、「媚薬」や「若返り」の薬を売ってヨーロッパ中を回りながら詐欺を働きました。

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誇大妄想なのか、ただのペテンなのか・・・いつしか彼は、自分をカリオストロ伯爵と名乗り始めました。
お金に困ると美人の妻を使ってつつもたせや、売春もさせていたようです。
東西南北を稼ぎまわり、彼の名も次第に知れ渡ってきます。

それにしても、学識も財産もない彼がこれほど人々を煙に巻いて名声を高めていくとは、
運のよさ(?)と経験のおかげでしょうかww

サン・ジェルマン伯の紹介によって、イギリスではフリーメンソンリーに入会します。
彼は独自の教義の一派を作り、パリへ移りました。

バカ高い入会金を貴族たちからせしめては、夫婦で豪遊の日々。
彼の絶頂期は何と言っても王妃の産む子が男の子であると占いでした予言が的中したときでした。
つくづく、運がよいですね。二分の一の確立に勝ったのですから!

こういう、貴族相手に口先で社交界を渡り歩く人をアヴァンチェリチェと言います。
術策家、という意味です。

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そして転落です。

有名な「首飾り事件」にちょっとかかわったために、バスティーユに投獄されます。
一応、放免されますが、フランスを追放されました。

首飾り事件はこちら→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-07-13

そしてローマに戻り、フリーメーソンリー支部を作ろうとして、その天敵であるヴァチカンに睨まれて
逮捕。裁判で経歴詐称がばれて投獄、牢屋で人生を終えました。

・・・自分が貧民出身のため、貧しい人々のことは無料でヒーリングしてあげて、病気を治してもらったという
人は、5万人くらいいたそうです。彼がカモにしたのは、お金持ちだけだったのですね。

でもまあ、ペテン師の末路は、こんなものです。

天才かペテン師か・・・天使を召喚する男 [l'histoires d’hommes]

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1527年、ヘンリー8世の下級役人であったウェールズ人に、一人の男の子が生まれました。
ジョン・ディー。

のちに魔術史に名を残すことになるとは、生まれた時は誰も思わなかったことでしょう。
表向きは、英国王室の占星術師。

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ユークリッド幾何学を修めた天才的な数学者であり、天文学、航海学にも通じていました。
それどころか錬金術や交霊術にも造詣が深かったのです。

彼は15歳でケンブリッジに入学しました。
その時に、一日を18時間は勉強と研究に、2時間を食事に、4時間を睡眠に充てることを誓いました。
すごいこどもです!

実際に、23歳の時にパリ大学から教授としての地位を求められたようなので、彼は勤勉で頭がよかった
のでしょう。
でも・・・・

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彼はオカルトに強い興味を持っていて、オカルト研究のためにこのパリ大学の教授の地位をけっています。

今となっては霊とか天使とか悪魔とかは科学とは全く対極のもののようにみなされていますが、当時は
切っても切れない密接な関係があると考えられてきました。科学と錬金術が同等とみなされていたことと
そう変わらないのです。

彼は英国での学問に満足できずに大陸に渡ります。
そこで自称・魔女(男ですが)と名乗る霊媒師たちと親しくなります。

彼は天才であり、さまざまな学問を修めた獅子貴人では鳴りましたが、一つだけどうしても足りないものが
ありました。

霊感です。

そのために彼は、霊媒師を組むことを思いつきます。
彼がいくら交霊術をしても霊は降りてきてくれないからです。

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やがてヘンリー8世の死後にイギリスへ戻り、年金を受け取りますが、彼の望む金額ではなかったようです。
エドワード6世、メアリー女王、そしてエリザベス女王の代になり、宮廷占星術師に任命されました。
エリザベス女王の戴冠式の吉日を占ったり、スペインの無敵艦隊との大戦前の嵐を予言して英国軍に
無駄な損失を出させなかったことなどから、気に入られます。

でもやはり、金銭的満足が得られずに、彼は再び大陸へ渡ります。

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そして彼は水晶占いにはまっていきます。

その頃、新しい相棒ができます。公文書偽造で両耳を切り落とされた罪人のエドワード・ケリーです。
このアイルランドの悪党ペテン師は、チャーミングな魅力で人々をだましていたそうです。

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伝わっているイラストでは、ただのおじさんですが・・・・若いころは人たらしがうまかったようです。

ケリーにしてみても、ディーはいいかもでした。
勉強だけが取り柄のまじめな男ですから、自分の金儲けにまんまと利用できるわけです。
二人は特別な盤を使い、天使たちが話すエノク語という言葉でメッセージを受け取りました。

このエノク語は彼らが作り出したとも言われますが、一定の法則があることが後世、コンピュータの分析で
判明しているために、魔術、暗号学、数学に精通していない限り作り出すことは難しいのではないかと
言われています。

アトランティスの言葉では? と考える研究家もいるそうです。

とにかく、水晶に現れる天使のお告げを聴いて、ディーはそれを書きとめました。
そして霊感のない鈍い彼でも、数回は精霊や天使と交霊できた・・・・気がする、と証言しました。
ペテン師ケリーには、霊感があったことは周りの人々も認めているようですが。

ジョン・ディーは1520年代に冒険家のスペインのコルテスが持ち帰ったという「魔法のガラス」と呼ばれる
黒曜石のガラスを所持していました。

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そしてある時に天使が表れて彼にくれたというオレンジがかった水晶球も持っていました。
精霊が実際の物質をプレゼントしてくれるなんて???

・・・でも、実際にそれらは大英博物館に飾られています。

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そのうち、ペテン師ケリーとは仲たがいして、ディーは彼を大陸に残して英国に戻ります。
ケリーはペテンで捕まり脱獄しようとしたけれど、その時の怪我がもとで病死したようです。

ディーは田舎の村で占い師として、名声とは無関係な、貧しくみじめな一生を遂げたと言われます。


伝説の王といえば・・・ [l'histoires d’hommes]

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昔むかーしのブリテン島。

ロンドンの大聖堂の前には岩に突き刺さった剣がひとふりありました。
この剣を岩から引き抜くことができた者がこの国の王になるという伝説がありました。
(・・・伝説の前の伝説ですね)

どんな大男も強力の者も、この剣を抜くことはできませんでした。

さて、ユーサー・ペンドラゴンという諸侯には、アーサーという息子がおりました。
彼はこの剣のうわさを聞きつけて、挑戦しに行くことにしたのです。

すると、どうしたことでしょう?
アーサーが剣をつかむと、特別に力を入れたわけでもないのにするりと抜けたのです!

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そう・・・アーサー王の物語です。
アーサー王はブリテン島の伝説の人物です。もしかして、実在した誰かといろいろと混ぜられてできた
ヒーロー像なのかもしれませんが。

とにかく、大昔の伝説が時代や文化を経ることによって、壮大な物語に変化してきた・・・という感じです。
原形は5~6世紀には存在していたようですが、それが中世の宗教観や騎士道精神を取り入れ、
脚色されていったのです。

a.Queen Gwenevere3.jpg王妃グィネヴィア。

アーサー王の時代はブリテン島は、周辺民族の侵入に悩まされていました。
西からウェールズ人、アイルランド人、ゲルマン人、北からはピクト人。

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戦死してしまった父の跡を継いだアーサーは、自分の居城であるキャメロット城に、「円卓の騎士」たちを
配置して、周辺国へ遠征に行かせて他民族を追い払いました。

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魔法使いのマーリンの助けを借り、湖の精霊から授かったエクス・ガリバーという聖剣を使い、
勝利を勝ち取っていきます。

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王妃グィネヴィアと騎士ランスロットの不倫話など、「関係あるの?」と思うような話もありますが( ´艸`)
(ランスロットの片思いだったとも、ただの淡い恋だったともいわれます)

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a.lancelot.jpgランスロット。円卓の騎士の一人。

ランスロットに惚れ込んで魔法の島から出てしまうシャーロットの姫君の話が個人的には好きですが、
ランスロット、モテモテですねw → http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-06-24-4

burnjones.BeguilingofMerlin.jpgこれはマーリン。

アーサー王が戦いで留守にしている間に、甥が反乱を起こします。
この戦いはアーサー王の勝利に終わりますが、重傷を負ったアーサーは傷をいやすために
聖地アヴァロンへ旅立っていった・・・・という感じで物語は終わります。

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ただの物語としてだけではなく民俗学的な見地からすれば、それぞれが何かを象徴しているのかもですね。
ブリテンの歴史に詳しい方はご存知かもしれませんが・・・。ご存知ならば教えてください!

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アーサー王は実在したのか、それとも歴代の支配者たちのまとまったイメージなのか。
甥はどこの民族を象徴していて、勝利したのに聖地へ傷を治すために旅立ち(あるいは死んだとも)、
二度と戻ってこなかったというあたりが何を表しているのかが知りたいですね^^



カサノヴァ [l'histoires d’hommes]

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ジャコモ・カサノヴァは、旅回りの芸人だった父と女優の母との間にヴェネチアで生まれました。両親には5人の子がいましたが、子供たちには関心を全く示さなかったそうです。
それが彼の性癖に影響を与えたとしても何の不思議もなかったでしょう。

幼いころは運よく上等の教育が受けられたおかげで、16歳で法学博士となりました。
しかしその後は180度生き方が変わります。
なまじ容姿がよかったようで、金持ちの老人にうまく取り入って社交界の寵児となり、
派手な女性遍歴を繰り返します。このことから女たらしのことをカサノヴァと呼ぶようになりました。

さて、仕事も忘れて女遊びに夢中になり、旅回りのヴァイオリン弾きに身を落としても、
彼はめげませんw
錬金術師、外交官、作家、ペテン師・・あらゆる肩書きで、ヨーロッパの貴族をだましました。あるときは貴族の老人に取り入って、まんまと容姿になり、貴族の称号を手に入れました。

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でも、最大のパトロンであったデュルフェ侯爵夫人がなくなった後は、運が尽きたのでしょうか、転落の人生を送ったそうです。

ルパンもかなわない、華麗な流れ星的一生の泥棒王子 [l'histoires d’hommes]

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映画みたいというか、マンガみたいというか、今の時代には絶対にありえないような人生を送った男が
19世紀末のヨーロッパにいました。

ゲオルグ・マノレスコ(1871-1908)。

「泥棒王子」と呼ばれた華麗な大泥棒です。

ルーマニアに生まれましたが、幼くして母をなくします。
父は賭け事好きの酔っ払い軍人でした。

彼は幼いころから手先が器用で、訓練したらカードを自由に操れるようになり、小学生にしてイカサマを
始めたと言われますw

友達をカモに、その親たちの宝石を巻き上げては質屋に売り飛ばす。悪事がばれると逃げるように14歳で
軍隊に入りましたが、享楽的な性格が合わず、すぐに脱走します。

16歳ぐらいには立派な詐欺師に。
トルコでフランスの伯爵夫人のペットの犬を助けて、使用人として雇われ、上流階級のゴシップやマナー、
金持ち女の口説き方を伯爵夫人から学びました。

彼の幸運は、容姿に恵まれていたことでした。

その後はギリシア、フランスでホテルや舞踏会を荒らしまわって荒稼ぎして、湯水のごとく金を使いまくり、
はったりをかまし続けます。ギリシア王女まで彼の魅力のとりこになってしまうのです。

パリでも手先の器用さをいかして(笑)高級宝石店を荒らしまわります。
面が割れてくると「仕事場」を舞踏会や貴族の屋敷に鞍替えします。

美青年の彼は、舞踏会でご婦人たちに甘い言葉をかけます。ダンスに誘いうっとりさせている間に、
身に着けた宝石を見事な手さばきで盗み取るのです。
あとで気付いてもご婦人たちは訴えることができません。なぜって・・・彼女たちは既婚者なので、
まさか美貌の青年によろめいている間に宝石を盗まれたなど、夫の手前、言えないのです。

そんな彼もついに捕まり2年ほど服役しますが、変装して刑務所を脱走します。

大陸も荒らし過ぎて居心地が悪くなり、アメリカへわたってまたまたロードムービーさながらの華麗な
泥棒生活を送り、2年後に再びフランスへ戻ります。

またまたまたヨーロッパ中を荒稼ぎして、ある貴族に成りすましてドイツ貴族の若い女性と結婚して
子供までもうけました!その後、正体がばれてまた捕まりますが・・・気がふれたふりをして精神病院へ、
そしてまた脱走です。

故郷ルーマニアに戻って出版社の勧めで回想録を出し、英雄扱いされますがすぐに飽きてまた泥棒生活へ。
アメリカ、カナダと「出稼ぎ」の旅に出て、右手を怪我します。

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40歳。
なんとなく大好きなフランスに戻り、右肩を切断。
それがもとで、ひっそりとアパートの一室で亡くなりました。
遺産? たった50リラだけでした!!!

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