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カリギュラ [l'histoires d’hommes]

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大アグリッピナの息子で、小アグリッピナの兄です。
(母と妹が同じ名前って、ややこしいですね;;;)

この呼び名は本名ではなく、「小さな軍靴」という意味です。
まだ2,3歳のころから、彼は特別に小さく作られた軍服や甲冑を身に着けて、父の遠征について回って
いました。ミニチュア兵士のカリギュラは、兵士たちにとてもかわいがられていたと言います。


父の死後は、母とともに苦難の毎日を送りました。
軟禁されて成長しましたが、兄弟のうちで彼だけは皇帝である叔父にかわいがられたようです。
母と兄が獄死しても、彼は財務官の地位を与えられていたくらいです。

やがて叔父が死ぬと、彼は皇帝になるのです。

ローマ市民たちは、彼が皇帝になったことを心から祝福してくれました。
24歳の若き皇帝は、市民の期待に応えようと希望に満ちていました。

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ところが、即位後2年ほどで、彼は暴君に豹変するのです。
なにか病気にかかり、九死に一生を得たために人格が変わってしまったのだそうです。
もしかしたら、ウイルスで脳が損傷してしまったのかもしれません。

自分の忠実な臣下たちを理由もなく殺したり、血筋を自殺させたり、妻を追放したりします。
とにかく多くの人々に死をあたえるのです。

そして浪費も激しく、香水風呂に入ったり、舟遊びや夜毎の宴会のために、現代の価値で1000億円ほどを、
彼は1年で使い果たしてしまったと言います。

マリー・アントワネットも負ける浪費ぶりです。

お金を作るために、彼は自ら売春宿を作り、貴族たちを通わせて料金を徴収します。
皇帝が娼家の主人とは、驚きです。

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カリギュラは腹心の部下に暗殺されてしまいます。
彼が死んだという知らせを聞いたローマ市民たちは、すぐに喜ぶことができませんでした。
だって、カリギュラのことだから、自分が死んだという噂を流して、その反応を見てどうにかしようと思っている
のかもしれませんから。

それえでもようやく彼の死を確信した市民たちは、カリギュラの像を破壊したといいます。
29歳の暴君は死に、市民にようやく安楽が訪れたのでした。




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役の行者はすごい人。 [l'histoires d’hommes]

役の行者(えんのぎょうじゃ)は、634-701に実在した、修験道の祖といわれる人物です。

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何がすごいかといえば、まず、生まれた時に手に一輪の花を握っていたそうなw
母親が気味悪がってこの赤ちゃんを山の中に捨てると(それもどうかと・・・)、
動物たちや鳥たちが一生懸命に守ってくれて、無事だったのですって。
だからお母さんはあきらめて(それもどうかと・・・)連れて帰って育てることにしたそうで。

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小さなころから一人で山に行ってしまいます(笑)
15歳ころには、もう日課になっていたそうです。
誰に教わったわけではないのに梵字を書きます。

ね?ふつうの子ではないでしょう?

お母さんが出家を進めても、お坊さんになる気はなかったようでした。

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まあ、血筋からしても霊感が強いのはもっともなのですが。
三輪氏から派生した賀茂氏の分家で、苗字は「賀茂役君(かものえんのきみ)」。
神事をつかさどる家柄のしかも結構裕福な家系です。

きっと小さなころから、ほかの人には見えない「ものたち」が見えたのかもしれません。
あまりにも霊感が強いので、飛鳥寺(当時は元興寺といいました)のお坊様が、
山での怪異を避ける「孔雀の呪法」を授けてくれました。すんなりマスター。
22歳で死んだインドの高僧から宝珠を授かって生きたまま仏のランクに。

道教も極めたために、空飛ぶ術もマスターです。
前鬼と後鬼、2匹の鬼たちを使役したそうです(鬼神の使役は道教です)。

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まあ、この「鬼たち」とは、朝廷に従わない山の民であったとも言われますが。
幼いころから山を知り尽くした彼なら、納得できちゃいますね。

葛木の山の神を怒らせて、謀反を働こうとしていると天皇に告げ口されて、伊豆に流刑になったことも。
でも昼はおとなしく刑に服し、夜は海を渡って富士山に毎日通って修業したとかw

誤解が解かれて伊豆から戻ることができますが、最後はお母さんを連れてこの世から旅だったそうで。

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役の行者によって、密教や道教、陰陽道などが修験道にリンクされていることは興味深いです。
後世の創作も大きいですが、まあ、日本の偉大なソーサラーの一人であったことは間違いないでしょうw

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雷神様のたたりじゃぁぁ~~>_< [l'histoires d’hommes]

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菅原道真(845~903)は、現在は学問の神様としてよく知られていますね。
受験生のいらっしゃるおうちでは、お守りなどあるのではないでしょうか。

小学5年生くらいの時に、ある和歌を習いました。

東風(こち)吹かば 匂ひ起こせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
(春風が吹いたら その香気を私に届けて遅れ、我が家の梅の花よ。私がいなくても、春になったらちゃんと
咲いて香っておくれよ)

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なんだろう、ちょっとさびしい歌だなと思いましたが、そのあと高校生になって意味を知りました。

道真は学者の家系の出身です。
もとは土師(はじ)氏、埴輪を作る渡来人の家系でしたが、ひいおじいちゃんの時に桓武天皇(これまたママが
渡来人です)から、菅原姓を許されたのです。

5歳で和歌、11歳で大人顔負けの漢詩を詠みました。神童は二十歳すぎればただの人なのですが、
かれは例外でしたよ。
18歳で文章生(もんじょうのしょう)=今でいう難関大学の超エリート学生
23歳で文章得業生(もんじょうとくぎょうのしょう)=難関大の修士課程
26歳で方略試及第=博士課程をトップで終えた

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時の天皇宇多天皇に認められ、
蔵人頭(くろうどのとう)=天皇直属の秘書長官
左京大夫(さきょうのだいふ)=左京区を治めるトップ
参議=トップクラスの政治家で発言力がある
中納言=その上のクラス
大納言=そのまた上のクラス
そしてなんと、右大臣にまで上り詰めました。

当時、藤原氏が政権を掌握しつつありましたので、藤原でないのに右大臣とは、かなりすごい出世でした。
本人の努力もすごいけれど、運もよかったのです、が、こんな順風満帆に出世すると、不特定多数から嫉妬されるのは世の常です。

そのなかでも彼を目の上のたんこぶ扱いして忌々しく思っていたのが藤原時平(871~909)。
藤原摂政家のおぼっちゃま。道真より26歳も年下なのにすでに左大臣。
道真が宇多天皇にかわいがられているのを嫌がっていました。
だから宇多天皇が退位して醍醐天皇が帝位につくと、年の近い若い天皇に取り入って、道真をふたりで疎み始めたのです。道真の娘が醍醐天皇の弟親王にお嫁入りしていることも利用して、陰謀をでっち上げました。

「右大臣はあなたを廃位させて、弟宮を天皇の位に据えるつもりなのです」と、醍醐帝に吹き込みます。
これによって道真は大宰府の帥(そち)に任官され、いわば左遷されたのです。

上の和歌は、左遷されるとき、都を離れる前に詠んだものだったわけです。
道真は無駄に2年間を九州ですごし、失意のうちに病死しました。

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さて・・・

道真の死から5年後。
道真によって出世できたのに時平の陰謀に加担した、蔵人頭の藤原菅根がぽっくりと死にました。
翌年は時平が39歳の若さで衰弱死。
10年後、道真の後任の右大臣が狩りに出て泥沼で溺死、死体は発見されず。
923年には醍醐帝の皇太子が21歳で突然死、その皇子も2年後5歳で病死。

醍醐帝は亡き道真を右大臣に戻し、流罪も取り消しにしました。
でも不吉な死は続きます。

930年、清涼殿に落雷。大納言、右中弁、その他数名がこの落雷で死亡、負傷者も多数出ました。
道真の死後20年たっていましたが、その間、毎年の風水害と落雷、飢饉、旱魃(かんばつ)、疫病が
続いていたために、市井の人々まで道真のたたりと噂していました。

醍醐帝までもがたたりを信じ、譲位しましたが、その1週間後に病死しました。
時平の兄弟や子供たちも次々と亡くなりました。

右大臣が雷神となって京の都に戻り、復讐をしているのだ・・・・。

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時平の弟の息子で「ちゃっかり者」として有名だった師輔(もろすけ)は、一族がたたり殺されるのを
恐れる中、あることを思いつくのです。

そうだ、いっそ怨霊として恐れるのではなく、神様として祀ればええんちゃうか?

ということで、大昔から雷神信仰のあった北野に社を建てて、道真を勧進して神様にしたのです。
いまや北野天満宮は全国に25000社、受験生の味方ですw
北野天満宮は道真にちなんで梅園が有名ですね。

大学生になって京都で初めて住んだ場所の近所に、道真の屋敷跡である小さな神社がありました。
多少なりとも、縁があったのかな、なんて思いましたよw

ヴラド・ツェペッシュ公 [l'histoires d’hommes]

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15世紀のワラキアの領主ヴラド・ツェペシュ公は、ドラキュラのモデルとされている人物です。

父親の代からオスマントルコと戦っていて、一時期はオスマントルコに人質にされたこともありました。

当時のヨーロッパは十字軍を送り、イスラムとの戦いに明け暮れていました。
現ルーマニアにあたるワラキアも例外ではありませんでした。

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ツェペシュとは「串刺し」という意味です。これはオスマントルコと戦った際に、相手の兵士たちを生きたまま串刺しにして、丘に並べたためについた呼び名だそうです。

ドラキュラというのは、「ドラクリヤ=竜の息子」からきています。これは父が神聖ローマ帝国から「竜騎士団」に叙されていたためです。

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美女の生き血を吸うというフィクションは、このワラキア公の残虐性からきています。
かれは生きたままの人を串刺しに知ることを処刑法として好んだようです。
おしりから、棒をさします。
すると体の重みで徐々に棒が刺さっていくという、おそろしい処刑法です。
わざと苦しめたいときは、棒の先端をあまり鋭くせずに、棒の長さを長くするのだそうです。

人質生活が彼の精神状態をゆがめたのかもしれませんね。
あるいは人生のほとんどを戦争に明け暮れたために、感覚がマヒしてしまったのかもしれません。

いずれにせよ、異常な残虐性を持った人物には違いなかったのでしょうね。

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彼は12年の幽閉生活をのちに送ります。
そして紆余曲折ののちにトルコ軍との戦いで戦死したそうです。

ルーマニアでは祖国のために戦った英雄としてたたえられています。

ちなみに・・・・

生まれ故郷には、ドラキュラのすべてがわかるという、アミューズメントパークがあるそうです( ´艸`)


こんなプロポーズは・・・>_<いやじゃっ!!!! [l'histoires d’hommes]

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英国のウイリアム征服王(1027?-87)は、フランス人ですwww
フランス名はギョーム。
イギリスの王室に長子相続制、そして国に封建制をもたらした王で、歴史の教科書では
「ノルマンディー公ウイリアム」の名でおなじみですね。

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この人が妻に選んだのは、フランドル伯爵ボードワン5世の娘マティルダ(1031-1083)。
求婚すると彼女はこういったといいます。

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「フランドル伯爵家の娘が、私生児ごときとは結婚いたしません」

あらら。

小柄で地味な少女ながら、生まれながらの貴族の娘として気高く育てられたマティルダは、
結構手厳しいことを言い放ちました。
しかも、ただの男にいったわけではありません。
誰もが震えがるほどの男の中の男にきっぱりと言ったのですよ。

そう・・・。
ウイリアムの父はノルマンディ公ロベール1世ですが、妻がいながら商人の娘に一目ぼれし、娘も
公に惚れ込んで、二人の間に生まれたのがウイリアムなのです。

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ウイリアムは生まれて間もなく父に引き取られて、その利発さから最高の教育を施されます。
ただ、出自が正妻からではないために、臣下たちにも見下されたそうです。

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でも彼は幼いころから軍事的才能を表し、父を喜ばせました。
長身で美形ながら、睨まれれば固まるほどの鋭い眼光の持ち主だったとか。

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なぜマティルダだったかというと、土地が欲しかったからなのですが、こんなキツいことを言われても
どうしてもフランドルが諦めきれなかったウイリアムは、7年後に業を煮やして手荒い手段に出ました。

・・・・さて、何をしたと思います?

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教会に礼拝に出かけた帰り道のマティルダを捕まえて、三つ編みに編まれた長い髪を引き掴んで
地面に倒し、殴る蹴るの暴行を加えたのです!!!

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彼女を軽くぼこぼこにすると、そのまま立ち去りました。

ええええ? フラれたはらいせ?と思うでしょう? いえいえ・・・・

なんとなんと、彼女はこの事件後にウイリアムのもとへ嫁ぐことを父に伝えるのです!!!
・・・・・・う~ん。。。。。。。。

婚礼の日に、首をかしげる父に彼女は言ったそうですよ。

「公衆の面前で私を殴るほどのお方、勇ましく男らしい方です」

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・・・・・・・

こうして彼女はウイリアムの王国を補佐するためにイギリス王妃となります。
彼女は戴冠した初のイギリス王妃でした。
夫のいない間は摂政として国を治める役割を担ったのです。
そして11人の子を産みましたとさ。

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それにしても、こんなプロポーズは嫌ですよねぇ?
受けたほうもすごいです。

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ちなみに、みなさんはどんなプロポーズをした(受けた)のですか?
ふふ・・・・( ´艸`)
参考までに知りたいですね♪





写実的ナルシシスム [l'histoires d’hommes]

ギュスタヴ・クールベ(1819-1877)はフランスの写実主義の画家です。
スイスの国境近くの村に、地主の子として生まれ何不自由なく育ちました。

果たせなかった父の夢を受け継ぐためにパリのソルボンヌ大学法学部に進みます。
しかし画家になりたいという自分自身の夢が打ち勝って、大学を辞めて美術学校に入りなおしました。

そしてひたすらルーヴルで模写に励みます。
25歳で画家としてデビュー。

若いころはなかなかチャーミングだったクールベ。
自分の人生の軌跡としての自画像をいくつか残しています。

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これは『傷付いた男』というタイトルが付けられていますが、胸から出血していますね。
彼との間に息子まで産んだ女性が、結婚することなく彼のもとを去った時に描かれたそうです。

なるほどね・・・。


彼のエピソードとしては、なんといっても、初めて個展を開いた画家、ということでしょう。
パリ万博に応募した絵が落選してしまったときに、パトロンに頼んで小屋を建ててもらい、
そこで1フランの入場料で自分の作品展を開いたのだそうです。これが「個展」の始まり。

中には、写実主義らしく、こんな自画像もあります~~~~~( ´艸`)

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プッ(≧ω≦。)どんだけナルシスト?
おもしろいですけどね。
年を取ってからはでっぷり太ってしまったので・・・・。この辺がイケメン最盛期!!

イケメン侯爵の大出世術 [l'histoires d’hommes]

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ジョン・チャーチル(1650-1722)はジェントリ階級から、たった一代で侯爵にまで大出世を遂げた人物です。
そう、あのウィンストン・チャーチルのご先祖様で、それにあのレディ・ダイアナの実家スペンサー伯爵家の
もともとのご先祖でもある人なのです。

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ジェントリ階級とは、準貴族の中流階級のことです。
彼の出世のきっかけは姉でした。

愛人が多すぎて自分の子供の名前も覚えられなかったチャールズ2世の時代。
チャールズの弟ヨーク公ジェームズの妃アン・ハイドの侍女をしていたジョンの1歳上の姉・アラベラが、
ジェームズに見初められました。アラベラはやせすぎていてあまり美しいとは言えませんでしたが、
ジェームズは若さを気に入ったようですww

ArabellaChurchill.jpgアラベラ・チャーチル

それで、16歳の弟ジョンも、ヨーク公ジェームズに目をかけてもらえるようになったのです。
たぶんジョンは、出世欲が大きかったのでしょう。
姉の寵愛はいつ失われるかわかりません。彼は彼で優遇される身を最大限に利用したようです。
軍隊で空連に励む傍ら、ヨーク公の兄、チャールズ2世の悪名高い愛人・バーバラ・ヴィリヤーズに
「飼われる」ようになったのです。

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バーバラ、覚えていますか? 王妃に張り合って自分もコスプレの肖像画を数多く描かせた、強欲な
女性。→  http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-09-17

そのバーバラの愛人になったのです。
バーバラは国王からもぎ取ったお金を、ジョンにたくさん与えました。
すごい循環図!
しかも、ジョンはバーバラの元で国王と鉢合わせしたこともありました。
でも国王は、「日々の糧を得るためにこのような任務に就いているのだから、そちを許す」と
ジョンにいったそうですwww

ジョンはバーバラからもらったお金を貯金したり投資したりしました。
ちゃっかりしっかりしていますね(笑)

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1674年の30年戦争ではオランダと戦い軍功をおさめます。
彼は何といっても、1704年のスペイン継承戦争で多大な功績を収めました。
優秀な軍人と言えばジョン・チャーチルといっても過言ではありませんでした。

宮廷に出入りして洗練され、優雅で美しい若者だった彼を、宮廷の女性たちはうっとりと眺めたことでしょう。
もちろん、バーバラとの間に愛はありませんから、彼を婿として迎えたいと思っていた貴族は多かったようです。
そんな彼が妻に選んだのは、以外にも高貴な貴族の娘でも金持ちでもなく、同じジェントリー階級の
サラ・ジェニングス(1660-1744)でした。

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サラは17歳の時に王妃の女官をしていて、ジョンと出会いました。ほとんど、お互いに一目ぼれでした。
でも当時ジョンはバーバラの愛人でした。

それでも二人は愛し合い、1677年に秘密で結婚しました。
二人ともそ知らぬふりを通したのですが、翌年にサラが懐妊すると、結婚を公表しました。

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チャールズ2世亡き後、ヨーク公ジェームズが王位を継いでジェームズ2世となりました。
サラはジェームズの妃の女官になりました。

ジョンのほうは1688年の名誉革命の時の司令官を務め、モルバラ伯に叙せられ、その後も
ガーター勲爵士、戦争での勲功を認められて公爵へと、着々と出世してゆきました。

サラとの間には2男5女。

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サラはジェームズ2世の王女で5歳年下のアンに気に入られ、いつもそば近くに侍りました。
ジェームズ2世がなくなると、このアンが女王として跡を継ぎました。
アンは親友の夫をさらに侯爵へと出世させました。

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サラは政治的なことに口を出すようになり、アンのもと絶大な権力を手に入れました。
ステュアート朝最後の君主となったアンは、心のよりどころを求めていたようですが、サラは既婚者なので、
しょっちゅう女王とともにいられるわけではありません。そのうち、女の友情はもろく崩れ去り、
サラは宮廷を退きました。

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こうしてチャーチル家はモルバラ侯爵家としての不動の地位を築き上げました。
夫婦して、なんと運の良い人たちなのでしょう!

ウィンストン・チャーチルは学校の先生にも見放される問題児で、あまりのひどさにお母さんが諫めの手紙を
書いたという有名なエピソードがありますが、こんな強運のご先祖様がいたら、彼が人並みではない運の
持ち主ということも納得できますね。




A life as a play ~Oscar Wild~ [l'histoires d’hommes]

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ウイリアム・ワイルド博士の次男としてアイルランドに生まれたオスカーは、物心ついた時からの
目立ちたがり屋。

「有名か、さもなくば悪名か」と、有名になれれば何でも構わないと考えていたようです。
たぶん(いや絶対に)ナルシスト(笑)。

「美こそすべて」という唯美主義をかかげ、ビロードのジャケット、派手なネクタイ、手にはシンボルとなった
ひまわりの花。長髪でけだるい表情の彼は、思惑通り悪評を書かれてまずは有名になりました。

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彼は1882年にアメリカに渡り、NYから一年をかけてアメリカ中を回りました。
セレブな人々にもてはやされ、若者たちは毛色の違う反骨精神に心酔したのです。
女優とも浮名を流しました。

まずは有名になってから、『ドリアン・グレイの肖像』を発表しました。
これは予想通り大当たり。美こそすべてと考える主人公は、ワイルド自身の生き方とシンクロして、
人々は熱狂したのです。

1892年には『ウィンダミア夫人の扇』とセンセーショナルな戯曲『サロメ』を発表しました。
あまりのスキャンダラスな内容に『サロメ』は上映禁止に。
ワイルドの名声の絶頂期です。
笑いが止まらなかったことでしょうね。

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そのころ、アフルレッド・ダグラスという青年と出会い、同性愛の関係になりました。
彼をポジーと呼び、どこに行くにも一緒で、ロンドンの繁華街では彼とともに金を湯水のように使い
享楽にふけりました。

これに激怒したのはポジーの父、クイーンズベリー侯爵。
化粧をして男の、しかもスキャンダルの権化のような(笑)ワイルドと息子が遊びまくって家名を穢しています。
彼はワイルドを公に非難しました。

何を思ったのか、ワイルドはこれを聞き流さずに真っ向から受けて立ってしまうのです。
およそ「秩序」とは無関係な彼が侯爵を相手に裁判を起こしたのです。
これによって私生活の自堕落ぶりを法の前にさらけ出すことになりました。

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1895年にホモセクシャルの罪により投獄。(今の世の中ならそんなことはないですが)
1897年には釈放されてフランスに亡命しました。
ヨーロッパ中をさまよった後、1900年に人知れずひっそりと亡くなったそうです。

1本の映画のような、花火のような人生。
見事な転落ぶりですね。彼も本望でしょう。



Who are you for real , Mr. Shakespeare? [l'histoires d’hommes]

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ウィリアム・シェークスピアは1564年の4月の半ばごろの生まれ、ストラトフォード・アポン・エイボンという村の出身です。

田舎で結婚して子供もできましたが、何を思ったのか20代のうちに家族を置いてロンドンに出て、
役者として生活を始めました。そして自らも脚本を手掛けるようになり、30代ですでに劇作家として大成功を
おさめ、40代で大金持ちになったといいます。

1616年の4月23日、彼の生まれ故郷で、2人の友人たちとこの村を訪れた一人の中年男が急死しました。
それがシェークスピアだったといわれています。

彼の遺体はトリニティ・チャーチという墓所に葬られましたが、シェークスピアの墓石にはこう掘ってあるといいます。

「良き友よ。ここに眠る遺骨を掘るなかれ。この墓を動かさざる者には幸福あれ、動かすものには禍あれ。」

こんなことを書かれたら、現代の科学の力で何かを解明したくとも、できないですよねぇ?

彼の死から焼く1世紀の後、ある牧師がこんな説を死ぬ前に言い出しました。
「シェークスピアは、実は、フランシス・ベーコンである!」

ロンドンでは有名人でありながら、本人に関しては何の資料も残されていないシェークスピア。
ストラトフォード・アポン・エイボンには確かに実在したものの、その人物は劇作家のシェークスピアとしての
遺作をなにも残していないこと、遺書にも作品のことが何も記されていないこと、蔵書が何もないことから、
ほんとうにその人物が劇作家のシェークスピアなのか?というわけです。

その当時の8割のヴォキャブラリーを駆使していて、詩や外国の文化、いろいろな話に熟知していたはずの
彼が、両親も娘も字が読み書きできないのに、そんな偉大な作家になるだろうか?と。

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実在していたのは確かですが、本当にその正体は不明のままなのです。
だれもがしるひとなのに、誰も知らない人・・・それがシェークスピアです。


偉大なる若き王と毒の美女 [l'histoires d’hommes]

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誰もが知っているマケドニアの若き王、アレクザンダー。アレキサンダーでもアレクザンダーでも同じですが。

たった20歳で父王亡き後マケドニアの王となり、勇猛果敢に領土を拡大して、北アフリカ、アジアにまたがる
大帝国を築き上げましたね。

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大昔の人物ながら、たくさんのエピソードが残っている人物でもあります。
それだけ、有名だったのですね。

だいたい、年齢でいえば中学生~高校生くらいの頃の家庭教師は、あのギリシアの哲学者の
アリストテレス。

十代半ばの少年が、偉大なる哲学者である家庭教師に反論したこともまた有名です。
もうすでに、帝王の要素が現れていたのかもしれません。

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若いながらも先見の明があった彼は、ただ制服を続けて大帝国を築いただけではありませんでした。
征服した土地の文化を敬い、新しい文化を徐々に取り入れさせるのです。
自分の兵士たちには国際結婚を奨励して、混血をすすめました。

これがヘレニズム文化を生みました。東西の文化の融合だとも言われますね。
ギリシア文化とオリエント文化の融合。


alex.Guillam van Haecht, Alexander the Great at the studio of Apelles, while the artist is painting the portrait of Alexander's mistress Campaspe, ca. 1630.jpg

彼はインドを征服したときに、一度死にかけたことがありました。
インドの王から、4つの贈物を受けたのです。

ひとつは、どんな病も見抜く名医。
ふたつめは酌んでも酌んでも酒がなくならない杯。
みっつめはすぐれた占星家。
そして四つ目は、絶世の美女。

じつはこの絶世の美女が、曲者だったのです。

古代のインドでは、王は見目麗しい女児を、毒に慣らせて育てたといいます。
致死量に満たない毒を赤ん坊の衣服やしとねにくるんでおくのだそうです。
ミルクに混ぜて飲ませるようにして、食べ物にも少量ずつ、混ぜて与えながら育てるのです。
もちろん、立ち居振る舞いやマナー、楽器の演奏や踊りなど、あらゆることを魅惑的にこなすように
仕込んで・・・・

この毒は、トリカブトだったといわれます。
王は暗殺したい相手に、こうして育てた絶世の美女を、贈り物とするのです。

アレクザンダーもこの毒の美女を贈られたのでしょう。
美女に口づけたら、毒が全身にまわるのです。

九死に一生を得て、彼はマケドニアに帰ることができました。

でも、32歳の時に、兵士たちと飲み明かしていた次の日突然に発熱し、高温が続いてさがらないまま、
9日後にあっけなく死んでしまいました。

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ハチに刺されたとも、マラリアだったとも言われています。

もし彼が中年以降まで生きていたら・・・・歴史はもっと変わっていたのかもしれないですね。
偉大な王も1匹の虫には勝てなかったのです。

大王亡きあとアリストテレスはアテナイを追われ、やはりトリカブトで自殺したといわれています。

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