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イル・マニフィコ [l'histoires d’hommes]

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15歳の時に、「祖国の父」と呼ばれる祖父のコジモがなくなりました。
そのとき祖父の葬儀で、病弱な父の隣に並ぶ知性あふれる引き締まった面構えのロレンツォと、
優しげな顔立ちの11歳の弟ジュリアーノを見た人々は、彼らにフィレンツェの未来を託したことでしょう。

ロレンツォは中学生くらいの年齢から病気がちの父の名代として、外交をみごとにやってのけて
いたそうですよ。なんといっても、周囲の王家や有力者たちと会見もできちゃうくらいです。

父母の美貌は受け継ぎませんでしたが(それは弟に受け継がれました)、
たぶん、ほんの少年と言ってもひきしまった、知性にあふれ自信に満ちた表情で、大人たちに
彼を侮らせないなにかがあったのでしょう。

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少年のころのロレンツォ


祖父の死後、その栄光を奪おうとかつての祖父の友人たちが父ピエロを追放しようと画策しました。
ピエロの容体が悪化して郊外に療養のために移った時に、追放の手筈が整えられました。
でもこの時に息子ロレンツォの迅速な働きによって、この画策は失敗に終わったのです。

20歳で父が亡くなり、若きロレンツォはメディチ家の当主となります。
祖父の築いた莫大な財産はすでに傾きかけていたために、芸術家たちを各都市に赴かせて
各地で職を得るようにしましたが、それでも彼の時代はメディチ家の芸術庇護全盛期となりました。

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クラリーチェ


彼は19歳の時に彼はコルシカの金持ち、オルシーニ家の娘クラリーチェと結婚しました。
当時としてはフィレンツェの外から嫁を迎えることは珍しいことだったようですが、この結婚は
莫大な持参金を考えて母のルクレツィアが積極的にすすめたそうです。

これはもしロレンツォがフィレンツェの娘と結婚すれば、他の選ばれなかった娘を持つ家の恨みを買う
ということも考えてのことだったようで、いやはや、大変ですね☆

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ロレンツォは若くして父の名代を務めるほどのやり手ながら、堅物だったわけではありません。
饒舌で友をよく笑わせ、子供っぽいいたずらもしました。
動物を愛し、いろいろな生き物を飼育していました。
父亡きあと若い自分のもとで不和がおきないようにと、親戚やフィレンツェ市民たちに細やかな心遣いも
もっていました。

フィレンツェでは若い支配者のもと、さまざまな催し物が行われ、ほとんど毎日がお祭り騒ぎ。
まさに文化の爛熟期でした。

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弟のジュリアーノ


闊達で知的なロレンツォと、美貌の弟ジュリアーノの周りは、いつも人でいっぱいでした。
でも、一方では若造を陥れてメディチにとって代わろうと虎視眈々と機会をうかがっている人々が
多くいることも事実でした。

ある時、教皇の領地だったところをロレンツォが実質上、フィレンツェの土地にしたことがありました。
教皇はそのことを根に持ってメディチの敵・パッツィ家を利用して、ロレンツォを闇に葬ろうとします。
教皇のくせに、悪人ですねw
(こんな腐った教皇がけっこういました)

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少年のころのジュリアーノ


ロレンツォオが29歳の時。
フィレンツェ大聖堂で、彼の暗殺計画が実行に移されました。

鐘が鳴り響いたのが合図。

司祭が彼に切りかかり、ロレンツォは身をひるがえし反撃に出て、たちまち二人の刺客を仕留めました。
でも・・・・

弟のジュリアーノはすでに床の上でこと切れていました。
無数の刺し傷を受けて血まみれでした。

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ジュリアーノ


怒りに燃えたロレンツォは、復讐の修羅と化します。
外では首謀者たちが民衆をたきつけようとしています。

広場はパッツィ家支持者と、大多数のメディチ家支持者たちでごった返し、多勢に無勢、メディチ家を
支持する市民が武装してパッツィ家が雇った刺客を殺してしまいました。
そしてジュリアーノ殺害により怒った市民たちによって、首謀者たちは全員首をロープでくくられ、
市庁舎の窓から外に吊るされました。

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この事件によりパッツィ家はお家取り潰し。
ロレンツォには幸運と栄光と、そして弟の死と弟が残した非嫡出の小さな息子が残されました。

彼は弟の遺児をわが子と隔てなく愛し育てました。
「どんな獣にも子を思う心はあるのだから」と、どんなに忙しくても子供たちと接することを忘れませんでした。
この子がのちのクレメンス7世、メディチ家出身の教皇で、カテリナをフランス王家に嫁がせて、
ワルイ王妃・カトリーヌ・ド・メディチにした(?)ひとです。

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1492年。
多くの暗殺計画や陰謀と戦いながら、芸術の庇護者の名を守り、ロレンツォは亡くなりました。
公式には「王」ではなかったけれど、彼はフィレンツェの王だったのです。
少なくとも市民たちには、気前の良い賢い君主だったのです。




男前皇帝 [l'histoires d’hommes]

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初代ローマ皇帝カエサル。

若い頃の彼はとてもおしゃれに気を配っていたようです。
今でいう脱毛もしていたそうですよ。
髪の毛はきれいにカールしてセットして、最新ファッションに身を包んでいました。
香油もぷんぷん、フェロモンぷんぷん(笑)。

10代で婚約者を捨てました。
というのも、彼女の家系が自分の出世にはなんの力にもならなかったから。
そして別の人と結婚しましたが、その後離婚結婚を繰り返すこと4回。

養子のオクタヴィアヌスは実は愛人。男だろうが女だろうが、気にいったらモノにするのです。
さすが皇帝、オトコマエですw

カエサルが来る!と聞けば、「女房を隠せ!!」が合言葉だったとかw

こんな人を落としたクレオパトラはやはりタダモノではないのかもしれないですね(●´▽`)

イル・ゴットーソ [l'histoires d’hommes]

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豪華王ロレンツォの父、ピエロ。
彼は48歳でメディチ家の当主の座につきますが、若いころからいろいろと病気に悩まされ、
「痛風王(イル・ゴットーソ)」なる呼び名で呼ばれています。

彼はコジモの妻・トレドのエレオノーラの子供ではありません。

たった5年ほどの統治の間に、さまざまなお家の危機を経験します。
コジモ亡き後にメディチ家をフィレンツェから追い出そうと画策した人たちがいましたが、
彼自身の運の強さとまだ少年だった息子ロレンツォの働きによって阻止されました。

首のリンパ腺が晴れていたけれど、メディチ家にしてはイケメンのほうだったようでw

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大変に几帳面な性格で、父親の葬儀でかかった費用は、召使に与えたお金まで書き留めたそうで。
その性格がフランス王ルイ11世にとても気に入られて、外交官時代にメディチの紋章をフランス王家の
3つのユリで飾ることを許されたくらいでした。

美しい妻とともに芸術に深い関心を寄せ、父同様に芸術家たちに惜しみない庇護を与えました。
画家たちはピエロの家族の肖像画を多く描きました。

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妻のルクレツィアは詩人でもありました。


ボッティチェリはピエロの長男・のちの豪華王ロレンツォとは5歳違いでした。
ピエロ夫妻はこの画家を家族同様に扱ったそうです。

彼は病気でなくなりましたが、亡くなる直前に、彼の威光をかたり、街を荒らしまわる輩が出現し、
心を痛めたと言われます。芸術家たちにだけでなくフィレンツェの市民たちにもおしみない寄付を
与えた彼だからこそ、短い統治期間でも名を残すことができたのかもしれません。

芸術に関心を寄せるだけでなく、自らも詩人として作品をいくつかを残した知的な美人妻と
その子供たちを描いた絵の話は、また今度です。

芸術の庇護者。 [l'histoires d’hommes]

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コジモ・デ・メディチは、父ジョヴァンニの後を引き継いで、実質上フィレンツェの最大の実力者となった人物です。
ロレンツォ・イル・マニフィコのおじいちゃんに当たります。

メディチ家は同じ名前の人がたくさんいるのでややこしいです>_<
他にもコジモ1世や2世もいますね。この人は区別して「エルダー」と呼ばれたりするようです。
ややこしいので、ロレンツォ豪華王をアンカーにして人物関係を述べています。

ジョヴァンニは人柄の良さをヨーロッパ中の権力者から信頼されて、メディチ家を金融王にした人でした。
でも、政治的にはまだ権力がなかったのです。

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父の死後に党首の座に就いたコジモは、金融面でも権力面でもナンバーワンになりました。
それには、ライヴァルの家との死闘を潜り抜けてきたことが背景にありました。

当時、メディチ家と並んで実力者だったのがアルヴィッツィ家。
でもこの家は市民に嫌われていました。
悪いことをしてのし上がったからなのです。

一方の振興メディチ家は、ジョヴァンニが築いた信頼がありました。
市民はみんな、メディチ家の味方。

だからアルヴィッツィ家は、コジモを亡き者にしようと企てました。
自分たちに対する反逆罪という名目でコジモと逮捕監禁、死刑にしようとしたのです。

でもメディチ家が軍を調えているのを耳にして、勝ち目はないと悟り、コジモを開放し、フィレンツェから
追放するだけにしました。

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パパ・ジョヴァンニの信頼と人脈のおかげで、他の共和国や教皇がコジモの味方をして、和解調停に
話がまとまります。

周囲からはアルヴィッツィに対する反感が最高潮に達し、ついにはアルヴィッツィのほうがフィレンツェから
追放されることになったのです。

名実ともにフィレンツェの実力者となったコジモは、莫大な財産を芸術に費やします。
プラトン・アカデミーと呼ばれる文化人や芸術家たちのためのアカデミーを設立し、
外国から学者たちを招き入れました。

フィリッポ・リッピのおもしろエピソードは、過去記事で本日のラストに再UPしてありますので、
おひまならばご覧ください♬

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妻のエレオノーラ。11人の子供がいました。


コジモの跡を継いだ息子のピエロは、治世わずか5年で病死してしまいますが、コジモの栄光は孫の
ロレンツォに引き継がれることになります。

プレイボーイなお坊様画家 [l'histoires d’hommes]

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イタリアのルネッサンス期の修道僧にして天才画家の一人、フィリッポ・リッピ。
ボッティチェリのお師匠さまでもあります。

フィレンツェのお肉屋さんに生まれたのですが、幼いうちに孤児になり、
修道院で育ちました。

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幼いころから絵心があったのでしょう、有名な画家に弟子入りして、教会の壁画に
素晴らしい作品をのこしています。

彼の困ったところは、女癖が悪いところでした。

いつも女性を追いかけていますwww

フィレンツェの統治者、コジモ・デ・メディチが絵を描かせようと彼を部屋に監禁したことも
ありましたが、シーツを伝って窓から脱走してナンパに出かけてしまったそうです( ´艸`)


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そんな彼が50歳の時、恋に落ちるのです(でもウワキはやめなかったようですが)。
それが修道女のルクレツィア・ブーティ。
なんと、23歳の美貌の修道女。

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彼は彼女に絵のモデルになってくれるように頼みます。
そしてある日、思いが募って彼女をさらってしまうのですwww

しかも!!!!

このルクレツィアの妹までもが、彼を追いかけてきてしまったのです!
妹といったら、きっとハタチそこそこでしょう・・・・・・??????
50歳でも相当魅力的だったのでしょうか・・・・( ´艸`)

翌年には息子フィリッピーノが生まれます。
彼もメディチ家お抱えの画家になりましたよ。

その後、彼の描く聖母はすべて妻にそっくりだったとか。

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絵から見れば、ルクレツィアは相当の美人だったのでしょうね。
でもウワキはやめなくて、60で急死するまで遊び回りました。

生臭坊主は日本にも一休さんのような人がおりますが、最後は愛人に毒を盛られて
死んだのではないかと言われるフィリッポ・リッピには、かなわないかもしれませんよ・・・・。



黄金に憑りつかれた男 [l'histoires d’hommes]

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イタリア最大の貿易港、ジェノヴァ。

ここはクリストフォロ・コロンボの故郷とされています。
さて、誰のことでしょう? 日本人にはクリストファー・コロンブスという名で知られていますね。
でも英語ではクリスタファ・カランバス。


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10代のころから雇われ先の商船に乗って、様々な航海をしたようです。
毛皮業者の多くの子供たちの一人として1451年ごろ生まれたと言われます(出身地は諸説あるそうです)。

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コロンブスの家。
ちょっとだけ寄りました。

ジェノヴァと言えば私にはペスト・ジェノヴェーゼ。
これでもかのバジルの葉っぱ、松の実、パルメザンチーズに塩、そしてエクストラヴァージン・オリーブオイル
を(すり鉢はめんどいので;;;)ミキサーにかけます。

パスタに絡めればジェノヴェーゼのパスタ。
なぜ名前がジェノヴァなのかというと、ジェノヴァ産のバジルを使うのが最高級とされたからだそうです^^

・・・・はなしが外れちゃいました( *´艸`)

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便宜上、日本人に知られている呼び方で話を進めます。

コロンブスはジェノヴァの富豪に仕え、アフリカやヨーロッパ各地を船で出回って、香辛料などの
商取引にかかわります。

ある時、フランス船に襲撃されて船が沈没、彼はポルトガルへ漂着します。
弟のいるリスボンへ行き、そこにしばらく滞在します。
没落貴族の娘と結婚したのもこのころです。

商船に乗りながら、大人になってから天文学や各外国語を学び始めます。
その頃は、「地球は丸い、はず」という説が出回っていて、これには彼も魅了されていました。
確かめたい、自分自身で。

さて、それまで水平線の果ては大絶壁で、そこまで行ったら堕ちて死ぬというのが一般的な考えでした。
でも科学の発達と香辛料を求めての新大陸への航路発見へのあこがれが、一部の人々の冒険心や
好奇心をくすぐり始めていました。

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中国での羅針盤と火薬の発明、そしてドイツでの活版印刷の発明が、人々に知恵を与えました。
当時のカトリックは科学を認めず、免罪符なるものを人々に売りつけていましたが、聖書が印刷されて
出回るようになると、「それっておかしいんじゃないの?」と疑問に思う人々が宗教改革を起こします。

羅針盤のおかげでほぼ正確に航海できるようになったし、火薬の発明で敵に襲われても船から
大砲を打ち込めますw

商人の子供で10代からアジア各地を放浪しているマルコ・ポーロの『東方見聞録』も、ヨーロッパ人の
アジアへの憧れを掻き立てました。「黄金の国・ジパング」に、コロンブスも憧れたのです。

・・・ちなみにマルコ・ポーロは一度もジパングに来たことないくせに、彼のせいで元寇も来たし、
悪いヤツめ(笑)。

さて、コロンブスは自分の航海のキャリアをアピールしてポルトガル王にパトロンになることを申し込みます。
王もノリノリでしたが、数学委員会に却下されます。

足りないのは資金だけ。
彼はスペインへ向かいます。そしてイサベル女王とフェルディナンド2世に謁見してお願いします。
でもなかなかいい返事がもらえません>_<

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そしてやっと、1492年にお許しが出て、8月3日に出向します。

目指すはインディア。東方の香辛料をもとめて。

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でもなんだかなぁ・・・・10月、到達したのはまったく逆方向、南米でした。
でも彼は原住民を「インディアン(インド人)」と呼ぶんですね。

なにも知らない純粋な彼らにプレゼントをたくさんもらって、黄金のありかを見つけるために彼らに
ひどいことをします。

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彼らの体つきの良さと素直さを見込んで(?)、奴隷としてスペインに献上しようと考えたのです。
そして2度目、3度目の航海でもひどい略奪と殺戮をいたずらに繰り返しました。

教科書には書かれていないけれど、彼は奴隷商人、という肩書もあるのです。
すべては黄金を見つけるためにしたこと。
強欲は人を狂わせます。

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イサベラ女王が崩御すると、スペインは彼を冷たくあしらいます。
すでにその悪行の数々は、知れ渡っていました。

最後はぼろ船4隻しかもらえなかった彼は、文字通り落ちぶれてスペインで病死したと言います。
その後しばらくの間、スペインが南米を略奪するお手本となったコロンブスの所業は、
「しかたないね」と済まされるものではないです。

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侵略者たちは武器、憎しみ、ずるさ、梅毒を新大陸にもたらしました。
大量の原住民が犠牲になりました。

そこがインドではなく、別の新しい大陸だ・・・そう早くに認めていれば、アノ国の名前も、
アメリゴさんにちなんだ名前にならなかったのですけど・・・・

数奇なものです、運命って。

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***********************************



あ、すみません。またまた言葉が足らなかったですね;;;
トクメイさんのご感想から、付け足しておきますね。

マルコ・ポーロが元の皇帝フビライに謁見したとき、日本についての質問を受けて
金やら真珠やらがたくさんの国、と言ったので、フビライは日本征服の野望を実行に移した模様です。
直接原因でなくとも、きっかけのひとつとはなったことでしょうね。

文永の役は台風の影響で船が沈没、弘安の役は台風の時期ではなかったのになぜか海が
大荒れに荒れて退散したそうです。

「神風」とは、そのへんから言われた言葉だそうで。



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愛妻家でけちな王様。 [l'histoires d’hommes]

有名なエピソードがあります。
英国王ジョージ2世が皇太子だったころ。

a..georgeII1.jpgジョージ2世。


妃のキャロライン・オブ・アーンズバーグと日課であるお昼寝の最中に、首相ウォルポールが
恐縮しながら眠りを妨げてきました。

父のジョージ1世が亡くなったという知らせでした。
ドアを開けた皇太子は、不機嫌そうに言ったそうです。

a..george II.Robert Walpole.jpgウォルポール。

「うそつきめ。で、何の用事なのだ?!」

父王の死を知っても、涙ひとつ流さず。
事情を知らなければ、なんと冷たい息子!!と思うでしょう。
でも彼はきっと、ほんとうに悲しまなかったことでしょうね。なぜって、彼の産みの母を、この父は
はじめからひとかけらも愛していなかったし、愛そうともしなかったのですから。

彼女の不貞を理由に、彼女を死ぬまで幽閉し続けたのですから。
息子から母を引き離し、かといって息子に愛情を注いだわけでもなく、彼の幼心に強烈なトラウマを
植え付けただけの存在だったのですから。

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彼の母は絶世の美女ソフィア・ドロテア。政略結婚でジョージ1世が英国王として即位する前に、ドイツに
幽閉されて忘れ去られました。
彼女のお話はこちら。→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-08-05-2

その当時まだ幼子だったジョージ2世は、妹とともに父方の祖母に引き取られました。
母と引き離されたショックでお勉強も手につかず。

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それでも成長してからはジョン・チャーチルの軍で対フランス戦で活躍しました。
(ジョン・チャーチルは大出世を遂げてチャーチル家を名門にしましたよ。このひとは、
ウィンストン・チャーチルのご先祖様ですよ! → http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-09-26-5  )

父王は棚ボタ式に56歳で英国王になったため、英国に愛情はないし、英語も話せませんでした。
「君臨すれども統治せず」、ほとんどドイツにいて、政治はウォルポールまかせ。
国民に信頼が最も薄い王様でした。

ジョージ2世はそんな父が大嫌い。
愛人をあまた囲い、母を幽閉し、自分たち子どもには愛情を示さない。
そんな父は彼にとって反面教師です。

彼は父のような浮気者には決してならないと誓いました。

a..georgeII.caroline.jpg王妃です。

妃のキャロラインは、利発な美女でした。
ジョージよりもはるかに機転が利き、どうしたら国民の信頼を得ることができるのかを考えて、ジョージを
プロデュースしたのです。

ジョージは気難しくて短気、ちょっとしたことですぐに怒り出します。
かつらを(当時の男性のアクセサリー)脱いで床にたたきつけ、ひどい悪態をつくのです。
なるべく人前でそうしないように、彼女はうまく夫を操りました。

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浮気をしないがモットーのジョージは愛妻家でした。
愛妻家だったのに、愛人を持つことになったのです。

なぜって?それは、当時のはやりだったから!!
やれやれ・・・と彼は適当に手近なところで見つけることにしました。

妃の侍女、メアリ・ベレンデンです。

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でもさほど愛人に興味のないジョージです。しかもけち。メアリは身近にいたのでよ~くわかっています。
だから早々に愛人を「引退」して、貴族に嫁いでしまいました。

つぎに「お役目」に就いたのは、ヘンリエッタ・ハワード。

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チャールズ・ハワードという貴族の妻であったのを、賠償金を払って離婚させて愛人にしたのです。

愛人を持つことが流行っていたから王様も愛人を持つことになった、というのは王様の事情。
王妃のほうはそれでも面白くないのは確かです。
彼女は身づくろいする間、ハワード夫人に水の入った洗面器をずっと持たせたままにする意地悪などします。
王様はかばうどころか、一緒になってひどい仕打ちをするのです。どうして?!

a..georgeII.caroline3.jpgキャロライン妃

愛人という名の下働き・・・(´∩`。)

ちなみに、フランスでは公式愛妾が認められていましたが、英国では愛人にはそんなおおやけの
高い地位は与えられませんでした。

屈折20年!!!!!
よくぞ耐えましたね、ハワード夫人。

王に「おばば」と呼ばれ煙たがられながら(自分が彼女と夫を離婚させたくせに!)、20年間、王と王妃の
お世話をして、わずかの年金と安価な宝飾品、ロンドン郊外のコテージを与えられて、引退したそうです。

いざ、偏屈の王のお世話をしてくれるひとがいなくなると、王妃はちょっと困ったそうです>_<

a..georgeII4.jpgジョージ2世一家

英国は首相ウォルポールのおかげで(そして王妃のおかげもあり)安泰で、「大英帝国」を確立しました。
父王も英語が話せないだめな王様でしたが、ジョージ2世がだめだめであっても、まぁ、ちょっとは
しかたがないのか? と同情もします。

小さなころに引き離された美しい母には、二度と会えなかったのですもの。

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ある日ぽっくり病死しましたが、それにしても・・・幼少期の衝撃的体験は、人格形成に影響がないとは
いいきれないものがありますね。



女王の心の支え [l'histoires d’hommes]

かつて、ジョージ3世の四男であったケント公エドワードは、ジプシーの占い師に
こんなことを言われました。

「あなたは、若いうちは苦労するでしょう。でも、年をtったらとてもよくなる。
お子さんが、えらい君主になるでしょうから」


でも、生まれたのは女の子でした。
彼は複雑な気持ちでした。そして半ば当たっていなかったのは、彼がその晩年の
幸福を実感することなく、子供が生まれて間もなく、病死してしまったことでした。

結局は、ジプシーの占いは当たっていたのですが。なぜって、その女の子は、
イングランドの女王になったのですから。

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彼女の名前はヴィクトリア。そう、大英帝国の繁栄の時代を築き上げた女王です。
イギリスに暮らしながら、3歳までは母方の母国語であるドイツ語しか話せませんでした。
しかし利発な子であったヴィクトリアは、数か国語はもちろん、様々な教養を身に着けた
レディーに育ちました。

18歳の時に王位に就いて、母方のいとこと結婚し、仲睦まじく英国を統治したことはまりにも有名です。
夫の死後は公式の場から一切引退して、死ぬまで喪服を身に着け、モウニング・ジュエリーなる奇異な
ジュエリーを流行らせた女王ですが…・

じつは。

最愛の夫亡き後、狩猟番のジョン・ブラウンを恋人にしていたと言われています。
40で未亡人になったヴィクトリア女王が、もう二度度と誰も愛さないと誓ったとして、
そのあとに誰かを好きになっても、まったくおかしくはないでしょう。

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愛する人がいなくなると、こころにはぽっかりと空洞ができます。
しばらくは何をしても何を見ても、何でもってしてもその空洞はふさがりません。
でもそこに誰かほかの人が徐々に入り込んだとしても、不思議はないです。

秘密結婚までしたと、いくつかの事実を証拠として挙げている人もいるようですが、
秘密結婚していたかどうかなんて、どうでもよいでしょう。

皇太子の起こしたスキャンダルのせいで病状が悪化して亡くなった夫。
彼女は息子を憎んだと言います。
味方のいなくなった彼女は、物静かな森番と心を通わせたのです。

恋人であろうが、生涯の友であろうが、心の支えだったに違いありません。
女王が亡くなったとき、彼女の子供たちは、ジョン・ブラウンに女王が与えた称号も
何もかもを取り消させたと言います。

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もっとも、もう二人ともなくなっていましたから、なんの弊害もないですけれどね・・・。





不良少年皇帝 [l'histoires d’hommes]

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古代ローマの暴君といえばネロやカリギュラが有名ですが、ほかにもいるのです。
ホントにどうしてそうなっちゃうの? と疑問に思わずにはいられなくなるような、なんというか、
人間は昔も今も人間の本能的な部分は、まったく進化していないのではないかと思わせるような、
そんな人物がヘリオガバルス。

たぶん、もともと彼は現代で言う性同一性障害だと思われます。
常に女装して化粧していました。
でも女装や性的嗜好は暴君の要素とは言えないので、もって生まれた性質が邪悪なんだと思いますw

彼はなんと、性転換手術をした最初のローマ皇帝です。14歳で即位して、在位は4年間。

しかし、まだ14,5歳であってもやることは恐ろしいことばかり。

  *よなよな娼館に現れて身を売る。→稼いだ金を臣下たちに見せびらかす
  *幸せで裕福な身分の、自分に年の近い少年たちを、いけにえとして両親の目の前で処刑する。
  *体に痣があったことが気に食わず、16歳年上の妻を国外追放。
  *ヒゲをぬいてメイクアップ。

愛人だった御者の少年を重臣に取り立てたり、男子禁制の神聖な巫女の神殿に忍び込んで(そういえば
女人禁制の相撲の土俵に無理やり入りたがった女知事が昔、いましたね)、巫女を犯そうとしたり。

不良です、不良。不良少年!ww

暴君でバラ好きといえばやはりネロですが、ヘリオガバルスもバラ大好き。

宴会でバラの花を敷き詰めるのは珍しくありませんが、中でもすごいのはバラの花を処刑に使ったことです。
気に入らない相手を部屋に閉じ込めます。
天上がぱかっと開いて、どさどさとバラの花びらが落とされます。
部屋の中の人物は、バラの花びらで窒息して命を落とすのですって。
(これはもっとも「優雅な」処刑法かもしれないですね>_<)

さすがにこの暴君ぶりと変態ぶりに愛想を尽かしたローマ市民は、暴動を起こし、制圧するほうの軍隊が
やはり裏切ってヘリオガバルスを捕えます。みんなで八つ裂きにして、川に投げ込んでしまったとか。


夫の貞操 [l'histoires d’hommes]

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アルブレヒト・デューラー(1471-1528)は、ドイツのニュルンベルクに、金細工師の息子として
生まれました。

版画家、画家、そして数学者の肩書を持ちます。

少年のころから描いていたので、自画像が多数残る画家だそうです。

これは『1493年の自画像』といいます。
彼が22歳の時に修行の旅をしている異郷で描いたもので、故郷の婚約者に贈られたものだと
言われています。

彼が手にしている花は、エリンギウムだと言われます。
日本では、マツカサアザミというそうですね。

ヨーロッパではハーブとして用いられていますが、夫の貞操をあらわす花だそうです。
赤のアクセントで「慈愛」をあらわし、
緑の衣服で「若さ」→結婚したばかりの若者が着る(まだしていないけれど)、
というように、この時代の色使いの基本をふまえています。

若いのにしっかり地に足がついているなぁと、21世紀の感覚で見ると感心してしまいますw
この時代では決して若すぎる結婚ではないのでしょうけれどね。
現代の22歳はきっと、妻に貞操を誓うなんて、考えられない・・・・かも?

もっとお年を取ってからの自画像は、なかなかダンディーなオジサマになっていますw



この絵にはルーヴルで会うことができます。

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a.HesiodListening to the Inspiration of the Muse.Edmond Aman-Jean.small.jpg

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