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Biaの肖像 [l'histoires de femmes]

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ルネサンスの黄金時代の最大のパトロンにして実力者であったロレンツォ・イル・マニフィコ。
メディチ家の最盛期の君主として知られます。

彼のおじいちゃん、コジモは、温和で人々の信頼厚かった父親のジョヴァンニのあとをついで、
黄金時代の礎を築き上げた人物です。

彼には美人なスペイン人の妻との間に11人の子がいました。そのうちの数人は生まれてすぐに
亡くなっていますが、、数人はメディチ家に名を残しています。

今回は、この11人の中に含まれない、彼のおそらくは最初の子供についてのお話です。

この絵はアニョロ・ブロンジーノという画家が描いたものです。
ビアの肖像、と呼ばれます。

ビアというのはおそらくはビアンカの愛称なのか、あるいは「ちっちゃな女の子」という意味なのかは
はっきりとは分からないそうです。

まだとてもあどけない、幼女が着飾っています。
彼女はコジモがまだ10代のころに生まれたと言われます。
母親は秘密にされたようです。

コジモはこの子を大変かわいがっていたそうですが、彼が結婚することになった時、妻に気兼ねしたのか、
妻がいやがったのかはわかりませんが、おばあちゃんのもとに預けられました。

でも、フィレンツエからはなれた田舎で、彼女は幸せに暮らしていたそうです。
イトコにあたるジュリアとおばあちゃんと、他の子供たちと仲良く暮らしていました。

でも6歳の時、熱病にかかったのです。
ジュリアもかかったのですが、回復しました。

ビアだけが、そのまま亡くなってしまいました。

コジモは悲しんで、この絵を描かせたそうです。
彼の長女は嫡出子のマリアということになっていますが、ホントはビアがコジモの第一子でした。
それでも彼女の遺体は、メディチ家の地下に埋葬されたそうです。

幼いビア。生きていたらどんな人生を歩んだのでしょうね。

黒の王妃 [l'histoires de femmes]

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かつてフィレンツエに多くの芸術家を集めて、ルネサンスの黄金期を築いたイル・マニフィコ(偉大なる)
ロレンツォ・デ・メディチ。

人柄がよく堅実な父の築いた人脈と信用で、フィレンツェの頂点に上り詰めた男。
彼のひ孫にあたる一人の女の子が、不吉な運命を背負って生まれたのは、月食の日でした。

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「この娘は、必ずや不幸をもたらすであろう・・・・」

このうわさが現実になったわけではないでしょうが、彼女を生んで間もなく、母は亡くなります。
父も、そのあとを追うようにあっけなく亡くなってしまいました。

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亡き父はウルビーノ公ロレンツォ2世。イル・マニフィコ・ロレンツォの孫にあたる人物。
母はオーヴェルニュ伯の娘マドレーヌ。

そして生まれて間もなく両親を失ってしまった不幸な小さな娘は、カテリナ。

カテリナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ。
フランス王に嫁いでフランス風にカトリーヌと呼ばれるようになる、あのフランス史上に残る
大虐殺を起こす人物です。

「月食の日に生まれた、不吉な娘」

そう言われる幼い彼女は、修道院に入れられました。

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ローマ法王庁に太いパイプを持ち、やがて家からも教皇を輩出するまでになったメディチ家。
当時の教皇はクレメンス7世。イル・マニフィコの甥にあたる人物でした。

少女になったカテリナはまたイトコのイッポリトと恋仲になりますが、教皇は野心家のイッポリトを
嫌っていたそうです。

そして、財力を得たいと願っているフランス王家と、彼らと親戚になり権力を得たいと願う教皇との
利害の一致により、彼女はフランス王家の第二王子と結婚させられることになるのです。

不幸なみなしごの彼女は、14歳でフランスへ嫁ぐことになったのです。
オルレアン公アンリは彼女と同じ14歳。

フランソワ1世は、幼い二人の初夜を、自ら見届けたと言います。
お父さんが初夜を見届けるなんて・・・・イヤですよねぇ(*´д`)

Diane de Poitiers2.jpgディアヌ・ド・ポワティエ

このお父さん、心配性だったのでしょうか?
幼い息子のために無事、世継ぎができるように経験豊富な愛妾を与えるのです。
18歳年上の、ディアヌ・ド・ポワティエです。

アンリはもっと幼いころからディアヌにあこがれを抱いていたので、彼はディアヌに夢中になります。
これがカテリナ・・・・カトリーヌにとっての人生最大の屈辱であり不幸でした。
彼はディアヌにたしなめられてカトリーヌとの間に10人の子供を作りました、が、カトリーヌのことは
少しも愛していなかったのです。→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-08-10-2

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だから彼女は「お嫁入り道具」だった錬金術師や預言者、魔術師たちとの遊びに夢中になります。
神秘学にのめりこんで、愛されない不幸を紛らわしていたのです。

彼女が40歳の時、夫のアンリが馬上の槍試合で目を突かれて亡くなってしまいました。
奇妙な死に方です。
これによって15歳の長男フランソワ2世が王になり、彼女は摂政となりました。

mary.FrancoisII1.jpgフランソワ2世

ここからは彼女の権力欲に火が付きます。

間違って毒殺してしまった、という説もありますが、長男が突然亡くなります。
そして10歳の次男が次の王位につきました。シャルル9世です。

ma.charles9.jpgシャルル9世

その頃、フランスでは新教と旧教の対立が激しくなっていました。
フランソワ2世の王妃スコットランドのメアリ・スチュアートの旧教徒のおじが、宮廷で発言権を強め、
新教を弾圧していました。これはシャルル9世が王位を継いだことでなくなりましたが、コリニー提督
という人が、新教徒のナヴァル王アンリと、カトリーヌの娘マルグリットを結婚させ、旧教国スペインと
戦争を起こさせようと画策していました。→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-04-27-2

margo8.gifマルゴ

そのため、カトリーヌは娘の婚礼の祝いの日にパリに集まった新教徒を皆殺しにしたのです。
これが世に言う聖バルテルミー(バーソロミュー)の大虐殺です。

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コリニーはとらえられ、カトリーヌの命令によって手足とあたまをバラバラにされ民衆にさらされた
あとセーヌ川に投げ捨てられたそうです。

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フランスの食文化に洗練された習慣をもたらしたことは評価させるものの、夫の死から黒衣に身を包み、
長年自分を苦しめてきた夫の愛妾を何もかも取り上げたうえで田舎に追いやり、邪魔者は容赦なく
毒殺、暗殺を繰り返してきたカトリーヌ。

月食の日に生まれた娘は70歳で病死し、王子たちもみな死に絶えて、ヴァロワの血統は絶えたの
でした。

シータイホウ~恐ろしき冷血~ [l'histoires de femmes]

こんな伝説があります。

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「太陽」という意味を持つ北方の民族、海西女直氏直系である、エホナラ氏が、ヌルハチによって
統一されて満州族の一つとなる時。

最後の首長ギンタイジが、清朝にたいしてこんな呪いをかけました。

「清朝はエホナラの血を引く女によって、必ず滅ぼされることになるだろう」

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・・・これによって、エホナラの血を引く女は、妃にしてはいけないという暗黙の了解が、王朝に
受け継がれていったそうです。
実際は、名家の一つであるだけに、皇帝に差し出されたり、妃になった女性もいたようですが。
でも、この伝説は真実を引き起こすことになります。

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1835年の11月の終わりに、エホナラの血を引く下級役人の家に、一人の女の子が生まれました。
蘭児と名付けられた彼女は、美しく成長します。

気性は激しく、平気でうそをつく子だったと言いますが、のちに付け加えられたイメージかもしれません。
でもまあ、幼いころから気性はあまり変わらないので、ホントにそうだったのかもしれませんが。

16歳(数え年では17歳)で「選秀女」と呼ばれる、お妃を選ぶ試験に合格しました。
下っ端でしたが、うまいことアピールして咸豊帝の目に留まり、「蘭貴人」と呼ばれる第5ランクの妃に
なりました。

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ここから、彼女の野望は爪を研ぎ始めます。
何度か流産しながらもついに、皇帝唯一の男児を生むのです。
これにより彼女の地位は「次期皇帝の母」として一気にアップします。

皇帝が病死すると、さらにチャンスが大きくなるのです。皇帝の葬儀でクーデター。
彼女は産みの母として皇太后とともに、5歳の新皇帝・同治帝の摂政となるのです。
(そのために高官を何人かなぶり殺しにしました)

皇太后は東に、彼女は西に住まいを構えたために東太后と西太后と呼ばれました。
そう・・・野望に燃えた女の名は、西太后、自らの欲望をかなえるためならば何でもする、
エホナラの血を引く女です。

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幼い皇帝は実の母よりも皇太后のほうになついていたそうです。
17歳で皇后を決める時も、西太后の進める女性ではなく東太后の進める女性を妃にしました。
面白くなかった西太后は、皇帝が后に会えないようにします。

『四書五経』を暗記するほど聡明なのに欲望には弱い西太后は、好き勝手な暴挙を進めました。
気に入らない者は暗殺、拷問死させ、贅を尽くした生活を続けます。

我が子である皇帝が梅毒で早逝すると、今度は自分の妹の産んだ3歳の甥を新皇帝に立てました。
光緒帝です。同治帝の皇后は幽閉して餓死させます。

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でも・・・光緒帝が残虐性が垣間見られる自分よりも、人の好い東太后になついているのを
面白くないとおもった西太后は、東太后を毒殺してしまいます。
たった45歳で急死したために、誰もが西太后に殺されたのだとわかっていました。

光緒帝が成長して親政を行うようになると西太后は摂政を引退し、贅沢三昧の生活だけを送る
ようになりましたが、彼が言うことを聞かなくなった来たためにクーデターを起こし、彼を幽閉します。
義和団の乱がおきて紫禁城を脱出せざるを得なくなったとき反対した光緒帝の愛妾に激怒し、
光緒帝の目の前で、妊婦だったその愛妾を井戸に突き落として殺害します。

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70代に入ると、さすがの凶悪猛女も死期を変えることはできなかったようです。
皇帝がある日、急死します。

そしてその2日後に、彼女はたった3歳の男の子を皇帝に指名してこの世を去りました。
この男の子が清朝最後の皇帝となり、満州初代皇帝となった愛新覚羅溥儀です。
西太后と、日本政府に運命をほんろうされたラストエンペラー。

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生前、自分のために作られた墓が気に入らずに見た途端に激怒した西太后は、作り直しを命じました。
金や銀、宝石で飾られた墓に埋葬されましたが、1928年に国民党が彼女の墓を暴き、彼女の遺体の
口の中に入れられていた巨大な真珠を盗み、その遺体を投げ捨てたそうです。

・・・捨てられたミイラの映像を見ましたが、美に執着していた彼女のなれの果ては、なんらほかの人と
変わりなく、ただの干からびた死体でした。

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ちなみに、光緒帝の遺体を現代科学で調査したところ、通常の200倍ものヒ素による急性ヒ素中毒が
死因だと判明したようです。

ブランヴェリエ侯爵夫人やラ・ヴォワザン、毒薬の陰に女あり、あるいはボルジアファミリーのように
毒薬を自由に操る家系にもいえることですが、恐ろしい殺害法です。

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おそろしや。光緒帝は西太后の道連れにされた模様です。



+++++++++++++++++++++++++++++++++++


日曜の昼間のうちに、いただいたniceが20万を超えたようです。
tooshibaさんが教えてくださいましたが、残念ながら出かけていて、達成の瞬間を
見届けることができませんでした☆

20万、踏んでくださったのはどなたでしたでしょうか。
いつも見てくださるみなさん、本当にありがとうございます。
UPが多すぎて、見るのも大変なのではないかと思いますが(笑)、
お好きな話題がひとつでもあればよいと思っています。

いつも料理のレシピが適当すぎてすみません~~^^;;
そしてたくさんのコメントもいつもとてもうれしいです♬

ありがとうございます~(*'ω`*)ゞ



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孤高の女王。 [l'histoires de femmes]

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イングランドを大国にのし上げた女王、エリザベス。
「女王の治世には英国は栄える」という言葉を生み出しました。
70歳まで生きた彼女の人生における、もっともスキャンダラスな出来事について、
お話しましょう。

父が母を処刑。
両親の愛を知らず、冷たい異母姉とともに日陰の暮らしを続けていたリズ(エリザベスの愛称です)。
陰鬱な少女時代の中で、彼女にはある幼馴染の少年がいました。
ロバート・ダドリー。

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実は、彼の父親はジェーン・グレイを担ぎ上げて英国王に仕立て上げたあのジョン・ダドリーなのです。
かれはその四男にあたり、弟ギルフォードは新妻ジェーン・グレイとともに処刑されています。
彼自身も父や兄弟たちと、父の謀反の加担者として幽閉されました。

さらにおじいちゃんも、ヘンリー7世の時代に反逆者として処刑されているので、いわば反逆一家の3代目です。
英国は反逆者の血筋でもまったく平気なんですね。ところ変われば、です。
日本の大名ならお家取り潰しになりそうですが。


liz.amyrobsart.jpgエイミー・ロブサード

ロバートは17歳の時にエイミー・ロブサードという女性と結婚しました。
しかし、リズが王位に就いてロバートが主馬頭に任命されると、宮殿で再会するのです。

liz.dud.jpg映画ではジョセフ・ファインズがダドリーを演じました。

諸侯とも諸国の王とも結婚したがらない彼女は、男嫌いかともうわさされていました。
しかし、ロバートに再会すると、彼と昼も夜も片時も離れなくなったのです。

liz.dancewizdudley.jpgダドリーと踊るリズ。

当時、女王の周りには千人以上の貴族が仕え、出世を待ち望んでいましたので、
女王のロバートへの寵愛ぶりに、ほかの男たちが嫉妬しなかったわけはありません。

あることないことないことのひどいうわさを流し始めました。

ロバートの妻のエイミーは、いつか毒殺されはしまいかと、毎日祈り暮らしたそうです。

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そんなある日、エイミーが召使たちが「たまたま」留守にしていた無人の屋敷の中で、
階段で滑り落ちて、首の骨を折って死んでしまったのです。

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そんなに段差も高くない階段で・・・・・。

世間の人々は、女王とロバートを疑いました。
二人が、暗殺したに違いない・・・・。

国内だけでなく、各国大使も本国にこのことでの報告を送ったものですから、
たちまちヨーロッパ中の噂になりました。

lizanddudley.jpgリズとダドリー。

エイミーが死んだ今、女王はダドリーと結婚するのか・・・。

でも結局、リズは結婚しませんでした。
女としての幸せよりも、一国の君主としての立場を選んだのです。

ロバート・ダドリーにはエイミー存命中からリズ以外にも何人かの女性がいました。
そしてのちに別の女性と再婚しています。しかもそれはある貴族の未亡人で、彼女の連れ子は実は
夫の存命中に浮気したダドリーとの間の子、という噂もありました。

リズはダドリーの再婚にひどく嫉妬したと言いますが、彼が死んだときは何も食べられず
部屋に閉じこもって泣き暮らしたと言います。

その後、33歳年下のエセックス伯ロバート・デヴァルーや、
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19歳年下でアメリカヴァージニア州の名付け親である探検家のウォルター・ローリー卿などが、
恋人として噂されました。
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・・・私は研究科ではないので、明確な資料や事実を証明するものはなにもありませんが、
もしかしたら、とこう想像してみます。

[リズはその陰鬱な少女時代に、こう考えるようになったかもしれないです。

愛とは、なんだろう?

母が父に処刑されたのは、自分が男の子ではなかったから。
男の子でなかったから、父にも母にも愛されなかった。

男は、信じてはいけない。
愛も、信じてはいけない。

自分を守るのは、自分のみ。

計算高く、嫉妬に狂い、男によって翻弄される、母のような人生は送りたくない。]



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心の内を、誰にも許すことはなく、どんなひどい干渉を受けても、表情を変えずに生きる。
それが彼女の生き方だったのかもしれません。

それは彼女が強い人だったからではなくて、それとは正反対に、とても傷つきやすい、他人に対して
自分を素直に見せることが苦手な、臆病なくらいのさびしがり屋だったからかもしれません。


私は・・一国の君主ではないので、そんな一生は嫌だなぁと思いますけど・・・


映画『エリザベス』はこちら。
↓     ↓     ↓     ↓ 
http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-04-20-16




王妃 V.S.  愛妾  コスプレ対決? [l'histoires de femmes]

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イングランド王チャールズ2世は、どうしようもないくらい女性関係にだらしがない王様でした。
あちこちで複数の女性と関係しては、数々の子供を作りました。
認められているだけでも10人の愛妾から庶子が18人。それぞれの女性がどの子の母親なのかを
メモったものを持ち歩かないと、わからないほどだったとか。

う~ん・・・・

そんな彼が結婚したのはポルトガルの王女、キャサリン・オブ・ブラガンザ(1638-1705)。

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肌が浅黒く敬虔深いカトリック。チャールズ2世は「からす」と陰口をたたくありさま。
真面目な王妃は3度流産して、結局、世継ぎを産むことはありませんでした。
優しくするどころか、夫は女遊びばかり。
女性たちとのウワキに目をつぶるならば王妃を大切にする、とまで言われるのですよ・・・・。ひどい。

自分の愛人の一人であるバーバラ・ヴィリヤーズ(1640-1709)が王妃の女官にしてほしいというと、
その通りにします。女官は給料がよいから。

barbara3.jpgバーバラ・ヴィリヤーズ。

バーバラは王妃より2歳年下、人妻だったころに王に近づいて落とすことに成功した、美しく浅はかで、
狡猾で貪欲な女性でした。

バーバラは王妃よりも高価な宝石をねだり、国庫金を湯水のように使ったそうです。
そしてなんとなんと、もらったお金はさらに自分の愛人に与えていたというのです。
愛人の愛人の存在は、王も知っていて、鉢合わせしたこともあるそうです。

─(lll-ω-)─


幸うすい王妃の楽しみの一つは、自分の生まれた日の守護聖人である聖カトリーヌに扮した肖像画を
描かせることでした。趣味もちょっと地味。

catherine.jpg聖カトリーヌに扮する王妃。

でも、つつましい王妃は無駄遣いなどしません。
コスプレの肖像画を描かせるくらい、カワイイ趣味です。

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しかしバーバラ・ヴィリヤーズは負けず嫌い(浅はかなおばかさんともいいますが)なので、
王妃に対抗して自分もコスプレの肖像画を描かせたのです。

BarbaraVilliersPeterLely.jpgバーバラ。

バーバラは羊飼いやマグダラのマリアを好みました。上の画像は羊飼い。
マグダラのマリアは、物欲に生きていたけれどイエスに出会って罪を悔い改めて、イエスと行動を共にするようになった女性と言われている人物です。

BarbaraVilliers1.jpgマグダラのマリアに扮するバーバラ。

上の絵のようなポーズが流行っていたそうですよ。

BarbaraVillierswithSonbyLevy.jpg

こちらは自分の子供との肖像画。
よほど美貌に地震があったのでしょうが、意地悪さがどの絵にも見て取れるのは私だけでしょうか?
( ´艸`)

catherineof braganza1.jpgキャサリン・オブ・ブラガンザ。

王妃はずっと王妃でしたが、バーバラはあたらしい、より若い愛人の出現によって厄介払いされました。
身をわきまえずに王妃に対抗しても、しょせんはそんなことになるだけのようです。




きみだけがすべて。 [l'histoires de femmes]

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ベッシー・ウォリスは1896年にアメリカのペンシルヴァニアで生まれました。
父親は正式に認知してくれないままに早逝してしまい、彼女は貧困の中で育ちました。
このちょっと不幸で平凡な女の子が、大人になって世界中を騒がせるようになるとは、一体誰が
想像できたでしょうか?

20歳で海軍飛行中尉ウィンフィールドと結婚します。しかし結婚直後に第一次世界大戦は始まり、夫とは
別居状態に。妻はアメリカ、夫は上海。彼女は上海に向かいますが、結局、二人の愛情は燃え上がることない
ままに冷め切っていました。

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1927年に離婚して、翌年にはお金持ちの男性、アーネスト・シンプソンと再婚しました。
そしてロンドンに渡りました。

もうおわかりですか? 彼女はシンプソン夫人、という名で世界中に知られた女性です。

1894年に英国の王族として生まれたエドワードは、「プリンス・チャーミング」とよばれるイケメンで
魅力的な皇太子でした。

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彼は周りにいくら身を固めるように言われても、蝶々のようにあっちの花、こっちの花を飛び回る独身貴族。
女性の扱いは手慣れたもので、ガールフレンドは星の数。
毎日華やかなパーティを開いては、気ままに生活していました。

ウォリスは皇太子の愛人の取り巻きの一人だったのです。
既婚者だし、格別目立つ美女でもなかったので、皇太子の愛人も彼女を安全圏に入れていたのです。
でも、予測はおおはずれ!!!

皇太子はウォリスに恋してしまったのです。

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もちろん、まだ彼女は人妻ですから、王室は大、大、大反対!!
でも1936年、ジョージ5世が亡くなって王位が空くと、皇太子がエドワード8世となることが決まりました。
ウォリスはこのころ二度目の離婚をします。

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王位か、彼女か、どちらかを選べと、彼は選択を迫られます。
「あたしと仕事とどっちが大事なのっ!?」と彼氏に詰め寄る巷の女性たちのレベルではありませんw
国から答えを迫られたのです。

だから彼は決断を下しました。ウォリスを選ぶ、と。

1936年12月11日、BBCで発表されたことは、世界中でトップニュースとなりました。
王位は彼の弟がジョージ6世として継ぎました。
一説には、エドワードはドイツ(ナチス)寄りの思想の持ち主だったために、すんなり退位を認められたとも
言われます。

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1937年に彼らは英国を離れ海峡を渡り、パリで結婚し、ウィンザー侯爵夫妻と呼ばれました。
そして1972年にエドワードが亡くなるまで、二人はひっそりと仲睦まじく暮らしたそうです。

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ウォリスは悪女みたいに言われます。
でも、こればかりはどうしようもないことです。
外的圧力に負けない、運命的な出会い。
これがこの恋が「世紀の恋」と呼ばれるゆえんなのでしょうね。

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サヴォイホテル殺人事件 [l'histoires de femmes]

1890年にモンパルナスで生まれたマルグリットは、踊り子で高級娼婦。
その美しさは多くの金持を虜にしていました。

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30代になっても、少女のようなあどけなさを残す美女でした。
彼女は33歳の時に、ある男性とカイロで運命的な出会いをしました。

10歳年下のエジプトの大富豪、アリ・ファミーユ。
彼は親の莫大な遺産を受け継いで、ヨーロッパ中で放蕩の限りをつくしまくる遊び人でした。
マルグリットの美しさに目をとめた彼は、その後まもなくパリで彼女に再会した時にプロポーズしました。

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1923年、二人は正式に結婚しました。
当時は英国のカーナボン卿がツタンカーメンの墓を発見したことで盛り上がっていたルクソールへ、
ハネムーンに出かけました。

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まだ子供と言えるくらいの、金の使い方もわからないエジプト人の夫と、貧しい暮らしから身を売って
生計を立てていたシビアな10歳年上のフランス人の妻は、すぐに亀裂を生じます。

ここでごっそり慰謝料をもらって離婚できればよかったのですが・・・・離婚はできなかったようです。
毎日毎日ケンカばかり。夫は結婚しても放蕩も女遊びもやめません。
妻も放っておかれる寂しさと腹いせに遊び始めます。すると夫は激しく嫉妬します。

二人の結婚は、1年も持ちませんでした。
終焉は1923年7月8日に起こりました。

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二人は7月1日に、ロンドンのサヴォイホテルのスイートにチェックインしました。
1881年、リチャード・ドイリー・カートがザ・サヴォイという劇場を造りました。
この劇場の隣に、1889年に建てられたのが、サヴォイホテルです。
1920年代には、ホテルの大広間がダンスホールとしてロンドンのホットスポットとなっていました。

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7月8日。
嵐の気配が漂っていました。

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一緒にディナーをとる姿が、ホテルのレストランで目撃されていました。
真夜中には嵐がやってきて、雷鳴がとどろき、雨の激しい音が聴こえてきました。

そして嵐を裂く銃声・・・・・・!!

ポーターが駆けつけると、血まみれで床に倒れた若い夫と、そばにピストルを持ったまま立ち尽くす
美しくうつろな表情の妻・・・・・。

雨が叩きつける大窓の外で、ピカッと走る閃光、浮かび上がる青ざめた顔・・・・

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死人に口なしとは、まさにこのことでした。
マルグリットの証言によると、夜中、二人は口論を始めたそうです。
そして夫が暴力を振るってきたので、彼女はとっさにピストルを手に取って夫に向かって引き金を引いた、と。

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ふだんから夫は衝動的に彼女に暴力を振るい、彼女はDVをうけていたと、裁判では声を震わせて
涙ながらに訴えました。

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それどころか、彼の性的嗜好は「異常」であり、彼女はいつも苦痛を感じていたとまで。
ゴシップが娯楽となり始めていた時代でした。マスコミはこの事件を派手に掻きたてました。
彼女の弁護士は彼女の無罪を高らかに主張し、人々も涙にくれる美女に同情しました。

しまいには、東洋人は西洋人には想像もできないほどの異常な性的嗜好があるから、西洋人の
マルグリットが夫婦生活に苦痛を感じていたのはどうしようもないことだ、などと、人種差別的な
意見も出てきました。

彼女は無罪を勝ち取りました。
でも、莫大な遺産はすこしも受け取ることはできませんでした。

「言った」「言わない」は双方で言い合いをしても水掛け論なのに、一方が死んでしまったら、余計に
真実は闇の中です。しかも、人種差別的な主張は、反感を持ちますね。

夫婦間のことは他人にはわからないとはいえ、たとえ彼女の話が真実だったかもしれないとしても、
うーん、なんだか、ひどい事件ですね。



9日間だけの英国女王 ~Lady Jane Grey~ [l'histoires de femmes]

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たったの9日間だけ王位に就いた、薄幸の女王をご存知ですか?

18歳で処刑されたレディ・ジェーン・グレイ。

その在位があまりにも短すぎるためにほとんど知られていないのですが、
いまでもロンドン塔で、白いドレスを着た彼女の亡霊がさまよっているそうです・・・。

父はサフォーク侯ヘンリー・グレイ、母は英国王ヘンリー7世の孫メアリ。

時はヘンリー8世が2番目の妻アン・ブーリンを処刑して、3番目の妻ジェーン・シーモアとの間に
待望の王子をもうけたころでした。

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王子と同じ年に生まれたジェーン・グレイは、将来のお妃候補として両親の期待を一身に受けながら
たいせつに育てられました。

年頃になるころには、その美貌と教養の深さから、英国一のレディと呼ばれるようになっていました。
数か国語を話し、プラトンを原書で読むほどの賢さ。

ヘンリー8世が亡くなり、9歳で王子がエドワード6世として即位しましたが、エドワードは体が弱く、
結婚して子供を作るのは無理と言われていました。

ヘンリー8世は遺言をのこしました。
もしエドワードが亡くなったら、メアリを次の英国王とする。
このメアリはヘンリー8世と最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの娘で、エドワードの年の離れた
異母姉に当たります(エリザベスⅠ世も異母姉です)。

摂政のダドリーは、ある計画を練りました。

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17歳の自分の息子ギルフォードと、15歳のジェーン・グレイを結婚させる。
そしてエドワード6世に、王位をジェーン・グレイに譲ると遺言させ、ジェーンを王位につけます。
ゆくゆくはジェーンの産む子(つまり自分の孫)を王位につける・・・。


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ジェーンはギルフォードと結婚します。15歳の花嫁。
そしてすぐにエドワード6世が亡くなります。

ダドリーは亡き王の異母姉メアリをとらえようとしますが、先に察知したメアリは逃げてしまいます。
でもダドリーはジェーンの王位継承を強行します。


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王位に就くことを聞かされたジェーンは、ショックで気を失ったといいます。
しかし、若いながらも思慮深い彼女は、ヘンリー8世の遺言があることを理由に王位を断ります。
しかし、ごり押しされて王位に就くのです。

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9日後・・・

メアリが王位継承を宣言し、ジェーンたちを反逆者とみなしました。
ジェーン、夫、ダドリー一家は囚われて、投獄されました。

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ジェーンは夫のギルフォードとともに、ロンドン塔へ。

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そして半年の幽閉生活ののち、彼女は夫とともに処刑されました。
夫はタワー・ヒルで、ジェーンはタワー・グリーンで。

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処刑は凍てつく2月。
白いドレスを着た彼女は、泣きもわめきもせずに、静かに刑に服しました。
彼女は、何一つ間違ったことはしていませんでした。
無実の罪によって、目隠しをされて、細い首をおとなしく差し出したのです。


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首切り役人の斧が、無残に振り下ろされました。

18歳。

あまりにも短い、儚い人生でした。

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若く美しい、無念に満ちた亡霊は、いまでもロンドン塔の中をふらふらとさまようそうです・・・。




薄倖のドロテア [l'histoires de femmes]

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ひとの幸不幸はどこで決まるのか、わからないものです。
生まれは高貴、嫁ぎ先も高貴ながら、ハッピー・エヴァ・アフターにならない姫君もいます。

ソフィア・ドロテアもその一人でした。

侯爵令嬢で、絶世の美女としてヨーロッパでも名高い存在だった彼女が結婚したのは、
ハノーヴァー選帝侯の王子ゲオルグでした。

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ゲオルグはすでに何人もの愛人や子供がいて、結婚してもその数は減るどころか増える一方。
しかもゲオルグの父ハノーヴァー公にも、プラテン伯爵夫人という愛人がいました。

ソフィアにとって、結婚には幸せなど皆無でした。
望んだわけでもなく、夫に愛されるわけでも夫を愛するでもなく。

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不幸な毎日を送っていたある日、彼女はある男性と再会しました。

それが幼馴染のケーニヒスマルク伯爵。
ハノーヴァーの傭兵隊長として赴任してきたのです。

sophie6.jpg地毛ではなく、かつらですよ~~

初恋の相手どうしの再会・・・。

しかも、ソフィアは不幸な毎日を送っていて、ケーニヒスマルクはそれを目の当たりにしているのです。
二人の間には自然と愛情が生まれました。

しかし一方、ハノーヴァ公(ソフィアの義父)の愛人プラテン伯爵夫人も、ケーニヒスマルクに目をつけていたのです。

ソフィアとケーニヒスマルクはそんなことはつゆも知らず、何百通もの手紙のやり取りをしていました。
秘密の恋文です。

ある一人の悋気に燃えた女に観察されていることも知らず・・・。

ケーニヒスマルクはある日、庭のあずまやに呼び出されます。
そこにはプラテン伯爵夫人が。
彼女はケーニヒスマルクをあずまやに引き込みます。
ゲオルグがそばを通るのを計算に入れ、あずまやの手前にソフィアの扇子を落としておいたのです。

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ゲオルグは妻のソフィアの浮気を疑います。

そしてある日、ヘーニヒスマルクはソフィアからの手紙を受け取りました。
それには、この結婚生活にはもう耐えられないので、駆け落ちしてほしいと書かれていたのです。

でもそれは、偽の手紙でした。
プラテン伯爵夫人が、自分になびかないケーニヒスマルクを憎み、罠にはめようとして書いたものでした。

ケーニヒスマルクが手紙にあるように、密かに開けられた入口から城に侵入してソフィアの部屋へ行くと、
ソフィアはびっくりしました。

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駆け落ちの手紙の件を話すと、そんな手紙は出していないと彼女は言います。
にわかに外が騒がしくなり、警備兵が大勢やってくる足音が。

ケーニヒスマルクは逃げましたが、途中で捕まって暴行され、最後は剣で突かれて殺されてしまいました。

深い悲しみの淵に追いやられたソフィアは、この騒動の責任を取らされて実家へ戻されました。
そして怒った父親に、幽閉されてしまうのです。

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心から愛する人を失った悲しみに、彼女は長い間浸りきりました。

その間に、イギリスに王位継承者がいなくなり、ゲオルグが英国王として選ばれました。
彼は即位して、ジョージ1世となったのでした。
でもソフィアは英国王妃となることはありませんでした。

ジョージ1世は相変わらずの放蕩ぶりで、国民の信頼を得ることはできませんでした。
忘れ去られたソフィアは、生涯でたったひとり愛した人の死を、悲しみ続けて余生を送ったようです。

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こんな女帝はイヤ。>_<。。。。 [l'histoires de femmes]

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ロシアのピョートル大帝の娘で、何だかわからないいい加減な経緯で30歳で帝位についた
エリザベータ。

父のピョートル大帝もたいがい奇人でしたが、この女帝もあきれる統治者でした。

「だれであっても、ピンク色のものを身に着けてはいけない」
という、「ええ??」と聞き返したくなるようなお触れを国中に出しました。

理由ですか?
…あほらしいが、自分がピンク色が好きなので、ほかの人が身に着けるのはイヤだ、ということでした。下着であってもダメなのですって(下着はどうやってたしかめるの?)。

もしも違反したら、シベリア流刑か、手足切断の刑です。あるいは両方。
・・・・・・・・。

舞踏会ではありとあらゆる宝石を身に着けて、ごてごてに飾りのついたドレスで現れます。
もしも彼女よりもセンスのある、素敵な格好をしていたら大変なことになります。
怒りを買えば、何をされるかわかりません。
こわい~~~~~~~(´д`、)

これでも彼女は死刑廃止論者だったのですよ?

でもピンク着用禁止令を破ったら、これだけは例外とかで、死刑になった人もいるようです。うーん・・・。

彼女を裏切って浮気した愛人の一人は、氷でできた館に放り込まれ、小人症の女性と結婚させられました。
そして鼻と耳をそがれ、シベリアへ徒歩で流刑に。
…ひどいですね。

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文化的な面では、ちょっとロシアの芸術に尽力貢献したことになりますが、自分の興味のあるファッションや芸術の華やかな面にだけ興味を示し、政治は早くから部下にまかせっきりでした。

こんな君主がいたら・・・どこかに亡命します。

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