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淀殿 [l'histoires de femmes]

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織田信長の妹で浅井長政に嫁いだお市の方は、「天下一の美女」と謳われました。
その娘たち3人も、母の美貌を受け継いだと言われます。

のちに淀殿と呼ばれるようになるお茶々は、すらりとした長身の美女。
性格はかなりキツくて、一筋縄ではいきません。

母のお市の方は秀吉がたぶん、一番惚れ込んでいた女性でした。
でも彼女は秀吉の求婚を断って、別の人と再婚しました。
・・・信長の命令とはいえ、彼女の長男を串刺しにした秀吉を深く恨んでいたのでしょうね。

母と養父が自害したのち、お茶々は敵である秀吉の庇護を受けます。
秀吉はすでに中年でしたが、若き頃にあこがれた女性にそっくりなお茶々に熱をあげます。
戦国の世の常と言えるのか、お茶々は何かしらの野望を抱き、秀吉の側室となったのでしょう。

正妻の北の政所も十数人のほかの側室たちもなしえなかった、秀吉の子を産むという大業を
彼女はやってのけました。鶴松が誕生すると、彼女の側室としての存在感と地位が格段に上がります。
淀城を与えられて淀殿と呼ばれるようになります。

でも不幸なことに、鶴松は夭折してしまいました。
そして次男拾丸(ひろいまる:通称「おひろい」ちゃん)が誕生しますが、彼女の腹にだけ子が生まれることで、
幼馴染の乳兄弟との間の不倫の子だとうわさされたようです。

これはおひろい(のちの秀頼)が身長2m近い巨漢であったのに、秀吉は150cm台の小柄な男だったという
ことと関係あるようですが(淀殿の不倫相手とされる幼馴染は大男だった)、淀殿の家系は長身なので、
たぶん母方の体型を受け継いでいたのかもしれないですね。

今ならDNA鑑定で一発でわかるのですが~。(→知らぬが仏?)

秀吉が死んでからは、秀頼の後見として大阪城の女主になりました。
そして間もなく秀吉の正室・北の政所を意見の相違から追い出してしまいます。

ここからは慣性の法則で破滅の坂を転げ落ちるだけ。

新しい天下人・家康にあいさつに出向くことをプライドの高さで拒否します。
冬の陣、夏の陣と2回も攻め込まれ、結局は観念して息子とともに自害しました。

もしかしたら、自害の朝に彼女はふと、こんなことを考えたかもしれません。

だいじょうぶ。あたしは無理だったけれど、妹のお江はちゃんと浅井の血をつないだから。


父が死の前に、母に告げた言葉を、まだ少女だった淀殿ももちろん、傍らで聴いていました。
「生きよ、生きて、浅井の血を後世に継げ」

妹のお江は、家康の息子・秀忠の正室となって、のちの三代目将軍・家光を産んでいました。

戦国武将の娘ほど、運命に翻弄された人たちはいないかもしれませんね。

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A charming little monster [l'histoires de femmes]

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1935年6月21日、ドルドーニュ地方の田舎で、あるプティ・ブルジョワの夫婦に女の子が生まれました。
末っ子として甘やかされて育った女の子。
彼女の名前はフランソワーズ・コワレ。小さなころの愛称はキキ。

引っ込み思案で早熟な不良娘。
14歳ですでにカフェに出入りしてアルコールとタバコを覚えました。

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バカロレア(フランスの大学検定試験)に一度失敗したものの、ソルボンヌ大学に入学します。
そして18歳で書いた小説が発表されるや否や、早熟の天才、魅力的な小さな怪物と称賛されました。

ペンネームはプルーストの気の遠くなるような長編小説の中の登場人物、「プリンセス・ド・サガン」から
取りました。そう・・・・フランソワーズ・サガンのことです。

19歳にして莫大な印税を手にした彼女が最初に買ったものは・・・・
ジャグァーのスポーツカーとヒョウ柄の毛皮のコート。

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「嘘をつくことが好きなの。だから小説を書くのよ。でも、体験したことのないものはかけないわ」


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そういって彼女は世間に衝撃をもたらしました。
17歳の少女が父親を愛しすぎるあまりに、その恋人を自殺に追いやるという話。
自分のボーイフレンドと、父親の愛人を使って。

がりがりの女の子が階段に座ってコーヒーを飲みながら朝食代わりにオレンジをかじる、そのイメージに
私は魅了されました。子供なのに、大人の情事に首を突っ込む皮肉な少女。

主人公と同じ17歳の時に『悲しみよ こんにちは』を読んだ時、全身の血の気がさぁっと引いていく感覚を
感じました。自分と同い年の女の子が、こんな危うげで魅惑的な世界に住んでいるなんて。
私のそれまでの17年の生涯がとてもちっぽけに思えて、大きな敗北感を感じたというか。

第一、もしも自分の父親がセシルの父親のようにチョイ悪オヤジだったらなんて、想像もできません。
「父には女が必要だ」と考える17歳の少女もすごいですしねw

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家を出て大学に行って数年後に引き払うときも、海外へ数年行ったときも、引っ越しのたびにどこに
あるのかがわからなくなって買いなおすこと数回。きっと私の人生の中でも、何冊も買っている本ベスト1
ですねw

『悲しみよ こんにちは』は、世界中で読まれました。
そして多くの人たちが、その卓越した言葉のセンスに驚かされました。

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10代で成功した彼女の生活は、スポーツカーとジャズとアルコール、たばこ、ドラッグの日々。
彼女の周りには快楽で堕落させるとりまきたちが集まり、彼女は金を湯水のように使いました。

若き女流作家は、睡眠不足と遊び疲れとアルコールとドラッグの大量摂取で、20代でもう人生の大半を
過ごしてしまったような表情をしていました。

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若くして憔悴しきった表情といえば、マルグリット・デュラスも思い浮かびますが・・・・
サガンの場合は、享楽と放蕩の限りを尽くした結果、です。

アメリカまで行ってドライブ旅行をしたり(相棒はトルーマン・カポーティだったことが多いようです)、
サルトルの実存主義の影響を受けたり。
ジャグァーを駆ってモンテ・カルロまでギャンブルにでかけたり・・・・

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とりまきのために高級アパルトマンを買ってみたり、バカ騒ぎのために南仏に別荘を買ったり・・・
21歳の時、彼女はアストン・マーティンのスポーツカーで大事故を起こし、重傷を負います。
サガン急死の誤報が流れたほどでした。

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でも運よく九死に一生を得ます。
そして友人の家で静養中の22歳の時、20歳も年上のギィ・シェレールと出会い、恋に堕ちました。
まさに、『悲しみよ こんにちは』の主人公セシルの父親のようなシェレール。
その年に二人は結婚しますが、たった2年で破局しました。

「愛は戦争だ」と、彼女は言っています。

「お互いを捕えようとするし、犠牲もでるから」と。

離婚して2年後、今度はモデルで自称陶芸家の若くイケメンのアメリカ人、ボブ・ウェストーフと結婚しました。
一人息子も生まれましたが(フォトグラファーです)、彼が嫉妬深く束縛が激しかったためにまたまた離婚。
でものちに復縁して結婚しないまま7年を共に暮らしました。

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二番目の夫と完全に破局した後あたりから、彼女はギャンブルにのめりこみ、神経衰弱に陥りました。
そしてノイローゼからアンフェタミン、モルヒネ、コカインや処方薬を常用するようになっていました。
愛人は同性も異性もいたし、出入り禁止を喰らってもギャンブルをやめることはできませんでした。

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「愛を信じますか?」とインタヴューで訊かれた時、彼女はこう答えました。

「ご冗談でしょう? 情熱は信じますよ。ほかには何も信じません」


「愛の寿命は7年です。 それは体中の細胞が生まれ変わる周期に要する時間だから」


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莫大な金を90年代にはほとんど使い切ってしまっていたとも言われます。
それでも若くして命を落とさなかったのには、一人息子の存在が大きかったようです。

「お金で幸せを買うことはできません。でも・・・私はバスの中で泣くよりもむしろ、ジャグァーの中で泣きたいと思います」


そして2004年9月。69歳の時に肺塞栓症で亡くなりました。
若くして成功をおさめ、莫大な金を手に入れながらも、それらを惜しげもなく使い果たして。

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インタヴューで彼女はお金に関する発言をたくさん残しています。
でもそのどれもが、達観した冷めたもの言いです。
スポーツカーのスピードで享楽の人生を駆け抜けて、たくさんの作品を残したサガンは、いまは故郷に
眠ると聞きます。

すべてではないですが・・・・サガンの小説を読み漁っていた私は、ずいぶんと皮肉屋の子供だったと
思います。大学進学のことよりも、人生の不条理について考えてしまうようなw 嫌な子供ですw
彼女の影響はとても強く受けましたが、私には彼女のような人生は歩めないですね。健康オタクですしw

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最後に、彼女の恋愛に関する名言を二つ。

「ドレスは、それをあなたからはぎとりたいと思う男をそそらないのならば、何の意味もないわ」


「年を取ることは恐ろしくはないけれど、外出してもそれがアヴァンチュールにならなくなることは、恐ろしいですね」




悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

  • 作者: フランソワーズ サガン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/12/20
  • メディア: 文庫



愛と同じくらい孤独 (新潮文庫 サ 2-15)

愛と同じくらい孤独 (新潮文庫 サ 2-15)

  • 作者: フランソワーズ サガン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1979/05
  • メディア: 文庫



絹の瞳 (新潮文庫 サ 2-16)

絹の瞳 (新潮文庫 サ 2-16)

  • 作者: フランソワーズ サガン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1980/07
  • メディア: 文庫



心の青あざ (新潮文庫 サ 2-11)

心の青あざ (新潮文庫 サ 2-11)

  • 作者: フランソワーズ サガン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1975/05
  • メディア: 文庫


恋しないと生きていけない [l'histoires de femmes]

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和泉式部は恋多き歌人でした。
10世紀末に生まれ、藤原摂関家全盛期にキャリアウーマンだったのです。
ママも働く女性でした。

ごく若いころに一度結婚して娘をもうけますが、すぐに離婚してしまいます。
それからはキャリアウーマンになって、はなやかな恋愛遍歴を重ねていきます。

そんな女性は同性からよく思われないことも多くて・・・・

藤原道長の娘、一条天皇の中宮だった彰子に仕えていたのですが、同僚の紫式部から
「けしからんヒトだわ」と日記に書かれています。

道長の腹違いの兄・道綱からは、「喪に服していても泉の名前通り、男の出入りが絶えないんだってね」と
いう歌をもらったことも。(→でもこのあと道綱はたわむれに熱烈に誘ってフラれます)

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同じく同僚で『栄花物語』を書いた赤染衛門は親友だったようですが。
(のちに和泉式部の歌集を出したのは、赤染衛門ではないかと言われるようですが)

彼女はたったひとりを一途に愛する女性ではなく、同時に何人かと恋愛できるタイプだったようです。
なかでも一番有名な恋バナは、二人の皇子たちとのことでしょう。

一条天皇(つかえていた女主人の夫)の従兄弟にあたる二人の皇子たち・・・・為尊(ためたか)親王と、
敦道(あつみち)親王。冷泉天皇の皇子たち。

初めはお兄さんのほうと恋愛していたのですが、彼は夭折してしまいます。
和泉式部はショックで引きこもっていましたが、その時に弟のほうから歌をおくられるのです。

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そこで彼女は考えます。
弟ならば、死んだあのひとの面影があるのかしら・・・?

そして、今度は弟のほうとの関係が始まるのです。
こちらは10か月間かなり燃え上がり、敦道くんは年上のファムファタルをついに自分の邸に牛車で連れて
帰ってしまいます。

そのために深層の令嬢だった奥様は、怒って家出してしまいます。
(家に愛人を連れ帰れば、当然の結果ですよね・・・・)

子供まで産んでしまいますが、結局はお別れしました。

そしてのちに道長の家に勤めていた20歳以上も、年上の藤原保昌と再婚しました。

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だからけしからん男のけしからん物語を書く紫式部にもけしからんと言われてしまうわけですが。
(あれは全部彼女が書いたわけではないとも言われますね)

この時代、大貴族のプレイボーイぶりは「色好み」と呼ばれ風流なものとされていたのですが、たいていは
そのお相手になる中流・下流貴族の女性たちは、同じようには思われないのですね。

でも、天皇の皇子を兄弟で手玉に取るくらいですから、魅力的な女性だったのでしょう。
春夏秋冬、一年中恋の歌を詠んでいます。

創作の原動力がお酒という人もいるし、エゴや苦しみという人もいます。
クリムトの場合は女性だったそうですが、彼女の場合はきっと特定の男性ではなくて、「恋」そのもの
だったのでしょう。

そしてママ譲りの歌の才能は、周囲に認められています。彼女の娘の小式部ちゃんも、同じく才能を
受け継ぎ、名のある歌人でした。「天橋立」の歌は有名ですね。

きっと、恋なしでは生きていけなかったのかも。
逆に言えば、恋多き女だったからこそ、魅力的だったのかも?

最後に、彼女の魔性の感性を。
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の、
「私の恋はどうなるのかな。わからん、きっと逢えたら死んじゃうかも」
という古歌をもとにして詠んだ歌。
(躬恒は平安初期の人で、苦しい恋の歌をたくさん詠んだ男性歌人です。)

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恋しさはそれにしもこそまさりけれ 逢ふをかぎりと誰かいひける


訳: 恋しさというものは、逢うことができてかえって燃え上がるものなのよ。
   逢ったら終わりだなんて、誰が言ったのかしら?


魔性~~(*ゝωб*)







和泉式部日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

和泉式部日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2007/08
  • メディア: 文庫



恋ひうた 1―和泉式部異聞 (フラワーコミックスアルファ)

恋ひうた 1―和泉式部異聞 (フラワーコミックスアルファ)

  • 作者: 江平 洋巳
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2008/07/10
  • メディア: コミック



和泉式部集 (岩波文庫 黄 17-2)

和泉式部集 (岩波文庫 黄 17-2)

  • 作者: 和泉式部
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1983/05/16
  • メディア: 文庫



歴史上おそらくは一、二を争う美容番長 [l'histoires de femmes]

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その名はポッパエア。
古代ローマの暴君、ネロの2番目の妻です。

はじめ騎士階級の夫がいましたが、のちにネロの友人と再婚、するとネロが横恋慕して、
この友人を左遷して、彼女を奪って自分の妻にしたのです。

ネロの母、小アグリッピナに自害を進めるようネロに入れ知恵したのは彼女だそうですが、
昔、彼女の母親は小アグリッピナに自害するように命ぜられて死んだので、あるいは彼女は、
母の復讐のためにネロに近づいたのかもしれないですね・・・。

でもポッパエアといえば有名なのは、その美容番長ぶり です。

美容番長といえば、クレオパトラもすごいですね。
バラのお風呂、バラの花を敷き詰めた部屋、真珠のサプリ、などなど・・・。
あ、楊貴妃も!!! ツバメの巣、ライチ、トリのスープでコラーゲン。
それに、オーストリア皇妃エリーザベト。専用美容器具をいくつか持っていたり、矯正下着、ダイエットの鬼、
そして卵ヘアパックなどなど(たばこを吸うのが美容法だと思っていた点は間違っていましたが)。

でもこのお方もすごいのです。

金に糸目をつけない美容法の数々。
脂肪、はちみつ、パン、あらゆる穀物で作った用途別のパック。

バラの香料はもちろんのこと、何と言っても有名なのは、ロバのミルク美容法

ロバミルクで洗顔、そしてなんとロバミルクのお風呂も。
ロバのミルクは肌をすべすべにしてくれて、美白効果もあるらしいです。
当時の「ローマ美人」は、金髪で、白い肌が絶対条件だったそうですよ。

プリニウスも『博物誌』のなかでロバのミルクの美肌、美白効果について述べていますから、
良く知られた美容方法だったのでしょう。

a.poppaea3.jpgロバミルクの石鹸。1ドルちょっとです。

旅に出るときは、メスのロバ50頭を引き連れて 行ったというので、相当なものです。旅先でもロバミルクは欠かせなかったのでしょう。
いまならボトルとか、袋の入浴剤なのに・・・( ´艸`)

欧米では今でもロバのミルクは一般的な美容法のようですよ。
古代から今までずっと続いているって、すごいですね。

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ロバミルクバス。400mlで19.90ユーロですって。

ちなみに、ローマの貴婦人は約20人の女奴隷を使って、午前中いっぱいをエステの時間に
かけていたそうです。ウラヤマシイ・・・・

マスカラ、チーク、シャドウ、つけボクロまでしていたと言います。


お手軽、すぐに手に入るのはこちら、馬のミルクの洗顔パウダーとローション。
http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-06-15-2

このシリーズは1200円~1500円で、塩入のマッサージクリームもありますよ。
馬のミルクもロバのミルクのように人間の母乳に近い成分で、美肌効果、アンチエイジングに最適です。

ロバや馬のミルクは人間の母乳に近い成分で、牛乳とは違うので、牛乳アレルギーの方でも
大丈夫とのことですが、いちおう、かかりつけのお医者様に訊いてみてくださいね。

あるいは、ロバのミルクならヤフオクに出てましたよ♪
(高いけれどまぁ、仕方がない・・・・)


ロバミルク石鹸 クラシック

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  • 出版社/メーカー: アジニュス
  • メディア: ヘルスケア&ケア用品




アジニュス ロバミルク石鹸 95g classique クラシック

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アントワネットの肖像画家 [l'histoires de femmes]

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エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(1755-1842)は、フランスの画家の娘として生まれました。
でもちょっとした家の事情(母親の事情)で、幼いころに親戚の家に預けられ、5歳までそこですごし、
6歳からは修道院に入れられました。

修道院の壁によく絵を描いては怒られていたと言われます。
父は早くから幼い娘の芸術的な才能を見出して、絵を教えました。
彼女が12歳の時に、その父が不幸にも事故死してしまいます。それからは父の画家仲間が
彼女に絵を教えたそうです。

a.Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun.plignac.jpgポリニャック夫人の肖像画

15歳になるころにはすでに肖像画に才能を発揮していました。
彼女が10代のころに描いた有名な肖像画は、弟のエティエンヌです。

当時、女性の芸術家は認められることがとても難しかったのですが、彼女の才能と、亡き父の仲間の
助力もあって、彼女はアカデミーの会員になりました。

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父亡きあと、母は裕福な宝石商と再婚します。
そして彼女にも、お金持ちの美術商と結婚することを強く勧めたのです。

彼女は20歳でジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚します。
彼はお金持ちだったけれど、すごい女たらし。浮気者だったようです。

a.Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun3.jpg娘との自画像

結婚の5年後には、娘のジュリが生まれます。
なんと、陣痛が来ている最中も筆を離さなかったと言われます。
娘がでてくるその直前まで、筆を握りキャンバスへ向かい続けていたそうですよ。

そしてその1年後に夫婦でフランドルを旅行した際に、ルーベンスらフランドル派の絵にインスピレーション
を受け、光を取り入れた繊細でつややかな画法を生み出しました。

a.ninon1.jpgニノン・ランクロの絵もルブラン作。
ニノン姐さんの素敵な格言はこちら→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-09-30-3

夫の大叔父が王室関係の仕事をしていたため、彼女はルイ16世妃のマリー=アントワネットの肖像画を
描く幸運を手にします。

a.Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun5.jpgアントワネットと子供たち

ちょうど彼女自身が娘を持っていたことは、母となった王妃に共感を抱かせるには十分だったことでしょう。
王妃としても、繊細な画風の女性画家を大変気に入って、自分付きの肖像画家に任命したのです。
そうして彼女は王妃やその子供たちとの肖像画を、30点以上も描いたようです。

フランス革命が起き、王妃のお抱え画家だった彼女の立場は難しくなり、国外を転々としていました。
オーストリア、ロシア、イタリア・・・・
どこでもその才能は尊重されたようです。エカテリーナまでもが惚れ込んでいます。

その頃はすでに夫とは離婚していたので、娘と2人で国外を移動していたのですが、娘はロシアの
貴族と結婚したようです。

もと夫や、弟たちの助力によって、反革命亡命リストから名前が外され、革命から2年後に帰国します。
1842年に亡くなるまでに、600以上の肖像画を残したと言われています。

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自画像も結構残していて、娘と自分を描いたものも数点見られます。
画家としては才能があったものの、家庭運は恵まれなかったようです。

a.Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun6.jpg自画像

でも18世紀を代表する女流画家であることは、間違いのない事実です。





NATSU [l'histoires de femmes]

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奈津は1872年、明治5年に東京で下級役人の次女として生を受けました。
兄が2人もいたけれどどちらも早逝してしまい、あちこちに借金ばかりしていた父も事業に失敗して
病死してしまいました。

だから奈津は男尊女卑もはなはだしい明治の世の中で、家督を継ぐこととなりました。
幼いころから文学少女で、余裕があれば好きなだけ文学に精を出すことができたかもしれませんが、
女に学問は必要ないという母の考えと貧困のために、そうもしていられなかったのです。

歌塾に入門、小説も習いながらも、生活のために働きます。
借金のために許嫁(いいなずけ)とも破談。母と妹を養います。

上流階級の子女たちにまじって、苦しい生活を送りながらも文学を続けます。
粗末な着物を着て、それでも身分の差に負けず気高く生き、文学を目指す若者たちとも交流を深めました。
のちに出世したもと許嫁に求婚されたけれど、断りました。
貧しくても、彼女は限りなく気高い人でした。

二十歳の時に小説を発表し、23~24歳に次々と発表した作品が高い評価を得ました。
幸田露伴や森鴎外が大絶賛したために、世間から嫉妬され悪く評価されたこともありました。

そしてたった24歳で、彼女は兄と同じ結核で、あっけなくこの世を去りました。

短い生涯で、貧困と闘いながら薄倖の女の生涯を描いた奈津。
文学は生きている年数によってすぐれた作品が書けるわけではないことを、彼女や中島敦、中原中也、
宮沢賢治や太宰治たちが証明しています。

自分の思うがままに人生を謳歌できなかった、意志の強い、気高き若き明治の女性。
彼女は今、5千円札に描かれています。

樋口一葉、彼女が奈津その人です。


絵は鏑木清方の『一葉』。


にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)

にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)

  • 作者: 樋口 一葉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2003/01
  • メディア: 文庫



大つごもり・十三夜 他5篇 (岩波文庫 緑 25-2)

大つごもり・十三夜 他5篇 (岩波文庫 緑 25-2)

  • 作者: 樋口 一葉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1979/02
  • メディア: 文庫



樋口一葉日記・書簡集 (ちくま文庫)

樋口一葉日記・書簡集 (ちくま文庫)

  • 作者: 樋口 一葉
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 文庫



England’s Rose [l'histoires de femmes]

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1961年7月1日、オールトラップ子爵ジョン・スペンサーに、一人の女の子が生まれました。2人の姉と
1人の兄、そして1人の弟という、5人兄弟の4番目です。

彼女の名はダイアナ=フランシス・スペンサー。
のちに英国皇太子妃となり、その座を捨てた女性。

地雷撲滅運動に力を注ぎ、彼女個人ではないけれど、そのキャンペーンがノーベル平和賞を受賞。
多くの困っている人々の力になり、自国だけではなく、不慮の事故で亡くなったのちも、世界中で
愛され続けている女性。

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「英国のバラ」と称される、たぐいまれな女性。レディ・ダイアナです。

彼女が7歳の時、両親は離婚してしまいました。
内気な少女は、きっと母親を恋しがったことでしょう。母が出ていく日、母の乗った車を窓辺でずっと
見送っていたと言われます。

バレエが好きな少女でしたが、背が高すぎてバレエダンサーになることをあきらめました。
そして子供好きな彼女は、保育士になることを決心しました。

ロンドンのタウンハウスを買ってもらい、そこでシェアメイトたちと暮らしていたこともあったそうです。
彼女の姉はチャールズ皇太子と知人(もとカノ)で、彼女も彼を見かける機会がありました。
1980年の夏ごろから、彼の結婚相手になることを夢見始めたそうです。

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望んだことが現実になることはすごい幸運なことです。
彼女は1981年の2月に、皇太子から求婚されました。
(実はご存知のように、皇太子側にも思惑があったのですが・・・・レディ・ダイアナを結婚相手にと勧めた
のは、ほかならぬ皇太子の長年の恋人で現夫人のカミラさんだったともいわれますが)

そしてその年のわずか5か月後には、あの世紀のウエディングとなるのです。
8mの(当時)世界最長ヴェールに、9000ポンドのウエディングドレス。
家宝のティアラをかぶった若く美しい花嫁のはにかんだ笑顔は、世界中を魅了しました。

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結婚によって、彼女は多くの称号を得ました。
英国皇太子妃、コーンウェル女公爵、ロスセー女公爵、チェスター女伯爵、レンフロー女男爵・・・・
世界中に祝福されたお姫様。

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でも・・・・すぐに彼女は、自分の結婚がおとぎ話のようにはいかないことに気づき始めました。
夫とはあまりにも性格も考え方も違っていて、そのうえ夫には長年の恋人がいて、結婚後もそれは
変わらなかったのです。

ご先祖様同士も愛人関係だったチャールズ皇太子とカミラ夫人は、彼女が入り込むことができないくらい
固いきずなで結ばれていました。→ http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14-3

「皇太子妃」としての「義務」を果たすことを求められていただけ・・・・

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それでも、彼女は「義務」を立派に果たしました。英国王室に2人の王子を誕生させました。
1982年6月21日、ウィリアム・アーサー・フィリップルイ誕生
1984年9月15日、ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイヴィッド誕生。

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王子たちがいたから、彼女は耐えられたのかもしれません。
誰かが書いた(すみません。忘れました)ダイアナ妃の伝記で、まだ幼い二人の王子が、トイレで
泣いていた母を覚えている、というくだりがありました。その頃の彼女は孤独から拒食症にかかり、
精神的に不安定だったようです。

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83年ごろから慈善活動に力を入れるようになりました。
愛する子供たちは彼女を癒してくれたけれど、それでも彼女は孤独だったようです。

元・乗馬インストラクターとの仲を、本人に暴露されたこともありました。
なかば投げやり状態だったのかもしれませんね。少しずつスキャンダルが流れ始めます。

たったひとり、たったひとりのひとが、彼女を愛してあげられたら、彼女だけに愛情を注いでくれていたら、
そんなことにはならなかったかもしれませんが・・・・。

a.ladydi4.jpgマザー・テレサと。

彼女は孤独な人々にしだいに深く共感していきます。
エイズ、ハンセン病、孤独な老人たち、麻薬中毒者、ホームレス・・・・そんな人々と話をしたり、彼らへの
救済活動をしたり・・・そうして、日々を送るようになっていきました。

中でも89年の地雷撲滅キャンペーンは、多くの人々の共感を得ました。
実際に防具をつけて現地視察したこともありました。

世界の多くの場所でまだ埋まったままの地雷が、間違って踏んでしまった罪のない人々の命を奪ったり、
手足を奪ったりしている現実を世界に訴えました。

もしかして、彼女の中で何かが吹っ切れたのかもしれません。彼が彼女との付き合いをやめないのなら、
私は、私だけを愛してくれる誰かを・・・・と思ったかもしれません。1992年に別居を決め、1996年には
彼女は皇太子妃の座を離れました。

a.ladydiwizTravolta.jpgJ.トラボルタとダンス。

慈善活動と華やかな恋愛遍歴をかさね、ついに彼女はたったひとりの人を見つけました。
ドディ・アルファイド。エジプトの大富豪の子息。

1997年8月31日。
パリで二人は自動車事故に遭い、命を落としました。

パパラッチの無理のある執拗な追跡や英国暗殺説などさまざまな説が流れましたが、結局、真相は
闇の中です。

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その日、私はうだるような暑さの中、イギリス人の友人たちと一緒にいました。
BBCのニュースを見たひとりが、「なんてことなの!」と叫び、どうしたの? と尋ねると、「ダイアナが
死んじゃったの!」と。 もう一人のイギリス人の友人も驚いて、二人は涙を浮かべていました。

さすがに国葬は・・・ということで、国民葬にされましたが、この国民葬こそ、彼女がいかに英国の人々に
愛されていたかを顕著に表しました。

私的に親しかったサー・エルトン・ジョンの『風の中のキャンドル』の歌が流れるなか、彼女の棺は
ゆっくりと葬列を進みました。

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人々はキャンドルをともしながら、9月の晴れ渡った空のもと、彼女の死を悼んで泣きました。
奇しくも、エルトン・ジョンのその歌は、マリリン・モンローのために作られたものでした。
36歳、同じ年齢で亡くなったダイアナのために、少し手を加えて書き直されたそうです。

「さようなら、英国のバラよ」という歌詞から始まります。

その年のノーベル賞では、彼女が参加した地雷撲滅キャンペーンが平和賞を受賞しました。
もしも彼女があの事故で亡くなっていなければ・・・・去年、愛する息子の結婚式を見ることができたでしょう。
そして世界中の弱者を、今でももっと元気づけることができたでしょう。

自分の内面が弱いからこそ、ただ安心できる愛情を求めただけだったと思います。
孤独や悲しみや心の痛みを自ら知っていたからこそ、弱者に対して優しくできたのだと思います。
彼女はきっと、自分にもしてほしいことを、人々に対してしていたのかもしれません。
人は弱いから完璧な聖人にはなれません。間違いもたくさん犯します。

でも、簡単に愛情が手に入らなくても、どんなに途中で投げ出したくなっても、いかに孤独が大きくても、
生きていくしかないです。彼女の生き方を少し知ってみて、そう思いました。

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事故直後はすこしだけ意識があったと言われます。
8月の終わりのパリのトンネルの中、彼女は最期に何を思ったでしょうか。
ドディさんのお父さんが出演したインタヴューを見たことがありますが、とてもお気の毒でした。
彼女だけではなく、彼も事故の犠牲者なのです。

私は専門的に研究しているわけではないし、誰かの立場で一方的に物事を語るのもあまり好きではない
ので詳しいことは知りませんが、ただ、この美しいひとの死を残念に思っています。

でも・・・彼女は美しい姿のまま、多くの人々の中に生き続けるのかもしれないですね。




完全版 ダイアナ妃の真実―彼女自身の言葉による

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ダイアナ―恵まれない人びとに手をさしのべたプリンセス (小学館版 学習まんが人物館)

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それが運命だったとしても・・・ [l'histoires de femmes]

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虞美人。正確な生没年は謎ですが、大体、紀元前200年ごろの女性です。
彼女は三国時代の武将・項羽の愛妾です。

美女で有名な彼女のもとには、求婚者が殺到しました。
でも彼女は、ある難題を彼らに課します。

千斤(260kg)の鼎(かなえ:青銅器などでできた、3脚のどっしりした器)を持ち上げることのできる人に
嫁ぎます・・・

もちろん、誰も持ち上げることはできません。
でも項羽は持ち上げたのです。
だから彼女は項羽を運命の男と定めました。

でもご存知のように、項羽は劉邦に攻められて四面楚歌に陥り、命を落とします。
その時にも彼女は項羽の側についていたのですが、項羽が亡くなってからはその消息は不明です。
(その場で一緒に亡くなったともいわれます)

後世の人々は彼女が項羽の後追いをしたという創作をしています。
そうかもしれないし、あるいはどこかで生き延びたか、別に愛する人を見つけたかもしれません。

このような女性が日本にも伝わっていますね。そう・・・木曽義仲の愛妾・静御前です。

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虞美人草・・・風になよやかにゆらぐ様子は、はかなげな淡い幸せの美女を連想させますね。
ポピー、ひなげし、コクリコ。

虞美人のお墓から咲いた花。
(これが起源ではないですが)

花言葉は「なぐさめ」。




annularis eclipsis solaris [l'histoires de femmes]

CIMG4645.JPG


紀元前770年ころ、西周の幽王のもとに、一人の若い女が献上されました。

名前は褒姒(ほうじ)。
妖艶な美女です。

素性はわからない捨て子で、商人に育てられたと言われます。
伝説では夏王朝の不思議な玉手箱から出たトカゲが、若い宮女の腹に入って父もなく生まれた子で
あるとか。

彼女は何があろうと決して笑わないのです。
笑わない、氷の細工物のように美しい女。

幽王は彼女に耽溺します。
正妃の産んだ皇太子を廃位して、褒姒の産んだ子をそのあとに据えます。

ある日、何かの手違いでのろしが上がりました。
全国の諸侯が武装して王宮に駆けつけました。

それを見た褒姒が、初めて大笑いしたのです。
幽王は感激しました。

そして彼女を笑わせようと、たびたびいたずらにのろしを上げるようになりました。
駆けつける諸侯を見るたびに、褒姒は大笑いです。
それを見る幽王は満足げです。

でも・・・・・

そのうち、諸侯はのろしが上がっても王宮に駆けつけることをしなくなりました。
たったひとりの王の妾を喜ばせるために、武装してはるばる王都に駆けつけるなど・・・あほらしいでしょう?
そしてその時がやってきます。

本当に敵が攻めてきたのです。
のろしをあげたけれど・・・・・

誰も本当の要請だとは思わなかったのです。
諸侯はのろしを無視しました。
そのため、西周はほろんでしまったのです。

この絵は安田靫彦の『日食』です。
日食を見ておののく幽王と褒姒が描かれています。
やがて滅ぶ運命を示唆しているかのようですね。

傾国の美女の不吉な運命が象徴されているようです。

いまでこそ日食を見て不吉だとおののくことはないと思いますが・・・・



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今日はどこでも金環日食観察のグラスが長蛇の列でした。
ひとつ1480円ときいてびっくりΣ(||゚Д゚) 

天文に興味がないわけではありません。むしろ子供のころから宇宙は好きです。
なにせ高校生のころは女の子雑誌ではなくNEWTONを定期購読していたくらいです☆

でもまあ、今回は、 グラスも望遠レンズのカメラもないし、道具もウデもない私は、みなさんの
写真を拝見することにします。なんと他力本願な!!! w

ということで、楽しみにしていますよ~~♬

「お父様のようにはなってはいけません」 [l'histoires de femmes]

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1844年、アリックスは弱小貴族の娘として生まれました。
父親は公子ながら、生活費がなくて、国からただで貸してもらう邸に暮らしていました。

それでも家族は幸せで、弟と二人の妹と彼女は、のびのびと育つことができました。
彼女と、年の近いほうの妹ダウマーが年頃になると姉妹の美貌は評判になり、ヨーロッパ中から
求婚の申し出がなされました。弱小とはいっても、やはり「血」を重要視するのがヨーロッパの王家です。

父は貧乏公子から、巡り巡ってデンマーク王の座につきました。だからアリックスは、デンマーク王女に
なったのです。

数ある求婚のなかで、彼女の父のもとに英国王室からの申し出がありました。
当時皇太子だったエドワード王子の妃に、ということでした。

財政的に苦しかったデンマーク王室としては、英国の援助を受けられることは幸運以外の何ものでも
ありません。しかも、エドワード皇太子の母であるヴィクトリア女王が、アリックスを見てその美貌に惚れ込み、
ぜひ嫁にしたいと乗り気になったのです。

英国のような大国の皇太子と結婚できるなんて、幸運だと思うのですが・・・彼女はあまり乗り気では
なかったようです。

それは、皇太子が相当の放蕩ものだという噂を耳にしていたからです。
なにせ、皇太子の父アルバート公が亡くなったのは、皇太子が困らせたせいだと母親のヴィクトリア女王が
信じて恨み続けたというくらい。実の母にまでそう思われるならば、ホントに相当なのですw

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でも、皇太子本人もアリックスの美貌を一目見て気に入ったために、この結婚はすすめられました。
1863年、彼女は19歳で英国へ嫁ぎました。

名前をドイツ風のアリックスから、アレクサンドラに改めます。
お気づきですか? 先日、ティアラの時に少しお話した、ロシアのココシニク・ティアラを作らせたあの
アレクサンドラ女王のことなのです。

年の近い、彼女と同様の美貌の妹ダウマーとは、のちにロシア皇帝妃となり、ニコライ2世を産む、マリア
皇后のことなのです。(アナスタシアのおばあちゃんですね)

彼女にはちなみに、ロシア風のティアラのほかに、結婚時に皇太子からプレゼントされたランデルティアラと
いうティアラもありました。これはのちに分割され、メアリ女王のお気に入りのブローチと、エリザベス女王の
ネックレスになったそうです。

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まさかこの時には、これからの結婚生活が恐ろしく不毛なものになるとは、たった19歳の姫君は想像も
できなかったことでしょう。

美人な妻をもらえば放蕩はやむだろうというヴィクトリア女王のもくろみは見事に外れました。
美人は三日で飽きるというか、アレクサンドラには首にリンパ系の手術のあとがあり、結婚初夜にその
首の疵を見たエドワードは、それから気味悪がって彼女を毛嫌いしたようです。

彼女が難聴だったことも、関係があったかもしれません。

彼はアリス・ケッペルという愛人をそば近くに置き、この関係は彼が亡くなるまで続けられ、アレくサンドラを
苦しめ続けました。自分の寝室にアリスを自由に出入りさせ、時にはアレクサンドラの目の前でいちゃつく
ことも。娼館にいりびたったり多くの愛人を侍らせたり、かなりの女好きでした。

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愛し合うことのない皇太子夫妻には、3男3女が生まれました。
彼女は子供たちには愛情を注ぎました。

「お父様のようになってはいけません」と子供たちに言い聞かせていたそうです。
日本でも奥さんがこんなことをいう家庭もあるようですが・・・・
エドワードの場合はまぁ、言われても仕方のない悪行ぶりなので・・・
でもなるべく、子供にこんなことを言ってはいけないような・・・^^;;;

夫はでぶでぶに太っていましたが、彼女はいつまでたってもまるで時を止めたように美しさを保っていた
ようです。その美貌はオーストリアのエリーザベト皇后もライバル視するほど有名だったようです。

楽しみは年に一度、ロシア皇帝に嫁いだ妹と、パリで会うことでした。
妹夫婦はとても仲が良かったので、彼女は複雑な気持ちだったでしょうね。

長男のアルバート・ヴィクターが28歳で病死したことが、一番悲しかったことかもしれません。
彼女とは子育ての観点がまったく逆だった次男の嫁との確執もありました。

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彼女が57歳の時、しゅうとめのヴィクトリア女王が崩御して、やっと皇太子に王位がめぐってきました。
王は60歳、でっぷり太っていましたが、アレクサンドラはまるで30代にも思えるほどの若々しい美貌を
保っていたと言います。

彼女のエピソードとしては、マラソンの距離を42.195㎞にした人としてが一番有名でしょうか?
彼女が言ったゴール地点が42.195㎞地点だったようです。

夫が生涯を通して愛した女性は愛人のアリス・ケッペル。
アレクサンドラがいちばん憎んだ男はエドワードで、いちばん憎んだ女はアリス・ケッペル。

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王は死に際にアルス・ケッペルを枕辺に呼び寄せました。
でもアレクサンドラは彼女を追い出して死に水を取らせることはしませんでした。
彼女は死ぬまでアリス・ケッペルを嫌悪し続けたと言います。

これはエドワードを実は憎しみの裏で愛していたから・・・・というよりも、本当に憎んでいたからなのかも
しれません。彼女の女としての、妻としてのプライドを踏みにじったから・・・・。

でも私は自分の子供には、「お父様のようになってね」と言って育てたいです;;;;


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