A life as a play ~Oscar Wild~ [l'histoires d’hommes]
ウイリアム・ワイルド博士の次男としてアイルランドに生まれたオスカーは、物心ついた時からの
目立ちたがり屋。
「有名か、さもなくば悪名か」と、有名になれれば何でも構わないと考えていたようです。
たぶん(いや絶対に)ナルシスト(笑)。
「美こそすべて」という唯美主義をかかげ、ビロードのジャケット、派手なネクタイ、手にはシンボルとなった
ひまわりの花。長髪でけだるい表情の彼は、思惑通り悪評を書かれてまずは有名になりました。
彼は1882年にアメリカに渡り、NYから一年をかけてアメリカ中を回りました。
セレブな人々にもてはやされ、若者たちは毛色の違う反骨精神に心酔したのです。
女優とも浮名を流しました。
まずは有名になってから、『ドリアン・グレイの肖像』を発表しました。
これは予想通り大当たり。美こそすべてと考える主人公は、ワイルド自身の生き方とシンクロして、
人々は熱狂したのです。
1892年には『ウィンダミア夫人の扇』とセンセーショナルな戯曲『サロメ』を発表しました。
あまりのスキャンダラスな内容に『サロメ』は上映禁止に。
ワイルドの名声の絶頂期です。
笑いが止まらなかったことでしょうね。
そのころ、アフルレッド・ダグラスという青年と出会い、同性愛の関係になりました。
彼をポジーと呼び、どこに行くにも一緒で、ロンドンの繁華街では彼とともに金を湯水のように使い
享楽にふけりました。
これに激怒したのはポジーの父、クイーンズベリー侯爵。
化粧をして男の、しかもスキャンダルの権化のような(笑)ワイルドと息子が遊びまくって家名を穢しています。
彼はワイルドを公に非難しました。
何を思ったのか、ワイルドはこれを聞き流さずに真っ向から受けて立ってしまうのです。
およそ「秩序」とは無関係な彼が侯爵を相手に裁判を起こしたのです。
これによって私生活の自堕落ぶりを法の前にさらけ出すことになりました。
1895年にホモセクシャルの罪により投獄。(今の世の中ならそんなことはないですが)
1897年には釈放されてフランスに亡命しました。
ヨーロッパ中をさまよった後、1900年に人知れずひっそりと亡くなったそうです。
1本の映画のような、花火のような人生。
見事な転落ぶりですね。彼も本望でしょう。
名前は聞いたことがあったのですが
こういう方だとは・・・。
生まれた時代が早すぎたのでしょうか。
by nonnon2 (2011-09-21 00:02)
大学の英語の副読本でオスカーワイルドを取り上げられた先生がいらっしゃいました。当時は面白さがよくわかりませんでしたが、読み直してみたいと思います。
by 九子 (2011-09-25 22:18)