SSブログ

A Rambling Rose~Kiki de Monparnassse~ [l'histoires de femmes]

アリス・プランは1901年、マリー・プランの私生児として生まれました。
14歳でパリの町に出てきて、さまざまな低賃金の仕事に就きますが、長続きせずに辞めてしまいました。

kiki.manrey.tears.jpgマン・レイの作品。

パン屋のみならいになりますが、そこもすぐに飛び出します。
そしてある彫刻家のモデルになりました。

生活のために脱いで、芸術家たちの愛人になること。
これがまだ十代の少女がようやく「落ち着いた」生き方でした。

kiki5kono_micao2.jpgMicao Kono、1927年の『モンパルナスのキキ』

彼女の母親は彼女を非難します。
そして彼女は家を飛び出すのです。

それからは芸術家たちの家を転々として、彼らのモデルになって生活しました。

kiki3.kisling2.jpgキスリング。

この少女の生き方をまともではないと思うでしょう。
でも、そういう生き方しかできない人も世の中にはいるし、そうせざるを得ない時代背景もありますよね。
もちろん、この時代にみんながみんな彼女のような生き方しかできなかったというわけではありません。

kiki3.kisling3.jpgこれもキスリング。

ただ、今でこそ婚外子も普通の子と同じフランスですが、当時、貧しくて私生児で何も持たなかった少女が、
どうにかして「まとも」に生きていたとしても望むような結婚や幸せが手に入ることは、
ごくまれだったのでしょう。

fu2.jpgレオナール・フジタ。『モンパルナスのキキ』

17歳である画家と結婚したようですが、結婚後も彼女の生活は変わらなかったようです。
キャバレーの踊り子で歌手、モデルでそして自身も絵を描きました。
モンパルナスのカフェやキャバレーを活動場所としていたので、いつしか彼女はモンパルナスの顔になりました。

kiki2.jpgマン・レイ。

1922年のあるイベントで、短い髪の毛に真っ赤な口紅というスタイルをはじめ、「キキ」というニックネームを使い始めたと言います。「モンパルナスのキキ」の誕生です。

キスリング、ユトリロ、モディリアーニ、スーチン、フジタたちのモデルと務め、おそらくは当時の画家たちに
最も多く描かれたモデルではないでしょうか。

フジタの自伝にも、キキが初めてモデルを務めたときのことが書かれています。
彼女はフジタのアパルトマンにやってきました。コートを着ていて、ドアを閉めるとおもむろにコートを脱ぎました。
コートの下は全裸。
そして彼女は横たわって、フジタは彼女を描きました。

その絵はフジタ本人も驚くほどの値段で売れたのです。
彼はキキに分け前を払いました。
彼女は大金を見てちょっと驚くと、どこかへふらっと出て、戻ったときには素敵な帽子をかぶっていたと言います。

1910年代は、ダダイズムといって、戦争に反対する芸術運動が盛んに繰り広げられていました。
アメリカからやってきた一人の写真家もダダイズムの先駆者的存在でした。

それが、マン・レイ。

kiki1.jpgマン・レイ。この写真が一番好きです。

カフェで運命的な出会いをした二人は、恋に落ちました。
そしてキキはマン・レイの写真のモデルになり、ショートフィルムにも出演しました。

彼との仲は、彼がアメリカの戻るまで続きました。

覚えていますか? シャネルの時に書いたのですが、モデルが現在のようにスレンダーでなくてはいけないというようなイメージが定着したのは、シャネルの出現からでした。

キキはスレンダーとは言い難く、豊満なタイプです。
それまでのが画家たちがこのむ裸婦像は、彼女のような豊満なタイプが主流でした。
それでも33歳の時にはもはや豊満とは言えないぐらい太りすぎて、ストレスで80kを超えてしまったそうです。

kiki5.jpgマン・レイ。

元来激しい性格で、女王のようにふるまう高慢な女のようなイメージがありますが、
貧しさがどんなものかを身をもって経験していたので、病気の友達がいれば迷わず自分のベッドに寝かせ、
自分は街角で野宿するというような、情の厚い面もありました。

すれた女のように見られますが、お金がなくて下着が買えなかった、それだけなのですって。
親しい人たちには慈悲深く思いやりがあったといいます。

「私はパリが好き。だってここには、私の好きな人たちがいるから」と彼女は言いました。

kiki5kono_micao1.jpgMocao Kono,1925年ごろ。

そんな彼女も晩年はさみしい生活を送りました。
戦争が終わり、画家たちが雇用に帰ってしまったあとに、彼女はモンパルナスで場末の仕事をして、貧しい生活を続けていました。

65歳で亡くなり、墓地に運ばれる彼女の棺には、フジタだけが付き添っていたと言います。




coucou♪(・ω・)ノ!(214)  ご自由に(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

coucou♪(・ω・)ノ 214

ご自由に7

アヨアン・イゴカー

こういう女性は、男性芸術家の想像力を掻き立てます。
こんな女性がいれば、惹かれてしまうのは仕方のないこと。
それでもレオナール・藤田しか付き添わなかったのですか、何と淋しいことでしょう。でも、その寂しさがキキらしいのかもしれません。それが新たな想像力、創作意欲を刺激するのでしょう。
by アヨアン・イゴカー (2011-07-11 00:12) 

sig

あまたの芸術家に肖像を残してもらえるなんて、やはり天賦の才能でしょうか。それと、この時代が巡りあわせたような気がします。
by sig (2011-07-11 07:31) 

gillman

マン・レイの写真はいいですね
by gillman (2011-07-11 08:42) 

ナカムラ

マンレイの写真は好きですが・・・キスリングは何というか素晴らしいですね。大好きです。
by ナカムラ (2011-07-11 18:29) 

ナツパパ

彼女の中には、今、しかなかったのかも。
そういう女性って強いですよねえ。
絵を見ても写真を見ても、天性の表現者ですね。
...ああ、なんて月並みな表現なんだろう...自己嫌悪。
by ナツパパ (2011-07-11 19:50) 

pocoApoco

マンレイ、そうだったんですか。。
学生時代はマンレイにかなり傾倒していました。
ブニュエルとかもっっ。
by pocoApoco (2011-07-11 21:25) 

YUKO

>もちろん、この時代にみんながみんな彼女のような生き方しかできなかったというわけではありません。
キキのようになりたい女がキキのように生きられる訳でもないです。
「美しい女である」ことを表現する機会にこれほど恵まれた人はそういないと思います。私としてはうらやましい女性です。
by YUKO (2011-07-12 10:03) 

ご自由にを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました
a.HesiodListening to the Inspiration of the Muse.Edmond Aman-Jean.small.jpg

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。