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本来の用途 [Paris 2015]

いろいろ調べてみましたが、日本では車のバンパーとは、衝突の際に衝撃を和らげるためのもの、と定義する人が多いみたいです。



こすったとかキズつけたっとかしたらたいへん!
修理に出してキレイにキズが目立たないようにします、ね?




が、




イギリスの『Mr.ビーン』で見たのですが、縦列駐車を10㎝位の間隔でしているところ、出るときに静かに前、後ろとごん、ごん、と前後の車を押しのけて出ていきます。






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つまり、バンパーはぶつけるためにある!





実際、パリでもぎちぎちの縦列駐車から脱出する場面を目撃して、日本では見られない光景なのでその様子をずっと見守ってしまいました~(笑)






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ということで、みんなバンパー傷だらけ。これがふつう。





日本ならほかの人の車に(そっとね、そっと)ぶつけて出ていこうものなら、トラブル発生! ですよね。ぶつけるのは気が咎めるし、ぶつけられるの見たらムカッときちゃう。





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古い車ならあんまり気にならないとは思いますが・・・・
実際、私の愛車の黒ちゃんにも上の画像のような擦り傷(めっちゃせまい踏切で右折の際にこすりました)が多数ついています。それでもやはり、ぶつけ、ぶつけられることには抵抗が・・・





いや、やっぱり日本だとトラブル以外の何でもなく・・・・






でも、ヨーロッパでは、普通!  (笑)






でもさすがに、高級車はちらほら路駐してあっても、前後の隙間は広めに開いていたので、ぶつけないのだと思います(笑) ぴっかぴかのBMW(よくそんなの路上駐車することですね)などは、ほかの人たちも遠慮するようです。




でも、ぶつけられても文句は言えないかな・・・?






ちなみに8月のパリの路駐はパーキングチケットを切る、有料利用だそうです。




リヴォリ通りにて。 [Paris 2015]

リヴォリ通りはセーヌの流れに沿って右岸に位置します。




ルーヴル美術館の脇、ちょうどメトロ1号線が下を通っています。






耳より情報!あります!
ルーヴル付近のリヴォリ通りはカフェやホテル、お土産屋さんが軒を連ねていますが、もしお土産のキーホルダーなどを買うならば、ルーヴル付近よりもパレ・ロワイヤルから東側で買ったほうが同じ商品でもお安いです!




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「トルストイがここに住んでいたよ」のプレート発見。


Wikipediaに書いてありましたが、彼はパリに滞在中に公開処刑を目の当たりにして「物質社会に失望」したそうです。




彼はきっと社会とか階級の中で生きる人々を描き続けることで「人生ってなんだろう?」と思ってしまったのかもしれないですね。


フランスではレオンと呼ばれるのですねー。
(ロシア誤ではレフ)








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ホテル・レジーナの隣の横断歩道の中間地点に立つのは、黄金に光り輝くジャンヌ・ダルク。


おそらくはフランス史上最年少の英雄?
彼女を有名にしたのはナポレオンだったそうです。




そしてぱっかぱっかと軽快な蹄の音が響いてきたかと思うと・・・




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わ~!!


馬車です!



馬車の隣をこちらは跳ね馬エンブレムのフェラーリがばびゅ~んと通りすぎていきます。
この写真ではちょうどメルセデスが隣を走っていますね。
中心地は東京よりもランボルギーニやフェラーリの遭遇率が高いのでワクワクします♪



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馬って本当に美しい生き物です。

でもアスファルトを走り続けるのはなんかかわいそう・・・
排気ガスまみれだし、車と同じ道だから、慣れているだろうけれど怖いだろうなぁ・・・



なんて考えながら、




ホテル近所なのでリヴォリ通りはよく歩きました。






天使か魔女か。”声”に導かれた聖少女・ジャンヌ・ダルク [l'histoires de femmes]

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ジャンヌはロレーヌ地方のドンレミ村の娘です。
農民の娘と言われますが、3人の兄と1人の妹を持つ、比較的裕福な家の娘だったそうです。
すなわち、ある程度の教養も知性もありました。



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ただ、想像の域を出ることができないのは、彼女に関する記録が抹殺されてしまっているからです。
フランス国内での認識もかなり低かったようです。



彼女をはじめて評価した有名な人物は、ナポレオンだと言われています。
それまではほとんど知られていなかったのですって。



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この少女を、ある日突然神がかりになってフランスをイングランドとの戦いから勝利に導き、王に見捨てられて
火刑に処せられたかわいそうな気違いと見るか、信念のために若い命を国に捧げた聖少女と見るか。



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当時のフランスは、イングランドと領土争いが続いていました。
シャルル6世に嫁いだものの、彼が発狂して暴力を振るい始めたために悪女となって、シャルルの弟や
いとこを誘惑して私利私欲の鬼と化したイザボー・ド・バヴィエールについては、以前に書きました。




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イザボー。





彼女は腹を痛めて生んだ実の息子シャルル王太子を、自分の権力保持のために夫シャルル6世の息子
ではなく、不義の子だと公言したのです。



だから王太子は自分のアイデンティティに長年悩んでいたようです。
そりゃあ、そうですよね・・・・実の母親にそんなこと言われたら;;;;



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シャルル王太子。



イザボーは夫のいとこオルレアン公と結託してイングランドと連合したブルゴーニュ派についていました。



娘カトリーヌ(シャルル王太子の姉)はイングランド王ヘンリー5世の妻でヘンリー6世を産んでいます。
(シャルル王太子の姉・カトリーヌ・ド・ヴァロワについてはこちら。お暇な方はどうぞ~~)
      ↓             ↓            ↓
     http://niki310.blog.so-net.ne.jp/2011-06-28-6




いっぽうシャルル王太子は、父王亡き後、王位をイングランドから奪還すべく、アルマニャック派として闘っていました。しかし情勢はかなり不利でした。


その頃のことです。17歳のジャンヌは、神の啓示を聴きました。



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大天使ミカエルの囁き・・・。





フランスを救いなさい。





そこで彼女は守備隊長に会いにゆき、王太子シャルルに謁見を申し出ます。



シャルルは彼女を試したと言います。
身代わりを玉座に座らせて、自分は臣下の中に紛れます。
もしも彼女が本物の聖少女ならば、王太子が誰なのかわかるはずだと思ったからです。




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ジャンヌは迷わず、臣下たちに紛れ込んだ王太子の前にひざまずいたそうです。

王太子とジャンヌは二人きりで話をしたと言います。
誰にも聞こえないし、誰にも知ることのできないある秘密を、ジャンヌは囁いたと言います。
それから、彼女は正式に軍を与えられたのです。



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そして彼女は4000の軍を率いてイギリス軍を破りました。
白い馬にまたがり軍の先頭に立って戦場を駆け巡る少女を見て、形勢不利なフランス軍は戦意を高めたと言います。





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その後、仲間の男たちの嫉妬で軍は勢力をそいでしまいます。
そして彼女は、国内の反対勢力にとらわれて、イギリスに送還され、異端審問にかけられるのです。
イングランドはただ彼女を殺すのではなく、徹底的に見せしめにしてから殺そうと考えました。
だから70数名の裁判官を用いて、半年近くも彼女を魔女裁判にかけたのです。



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この時代のヨーロッパは、なにかあるにつけ魔女裁判を行いました。
不思議なもの、説明のつかないものはすべて魔女のせいにして、不特定多数の人々を犠牲にするということを繰り返していました。



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魔女の処刑法は火あぶりと決まっています。
彼女はたった19歳で火刑に処されました。
王太子は彼女のおかげで即位できたのに、彼女への身代金の支払い要求を無視しました。





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リュック・ベッソンの描くジャンヌは、もとスーパーモデルのミラ・ジョヴォヴィッチをジャンヌにして、迫力あるものに仕上げてあります。戦闘殺戮シーンに「もういいよ~」と感じることもあるんですが(笑)ほんとうに、迫力があります。





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私なら何かの主義のために19歳で死を選ぶなんて絶対にいやですけど(正直言って)。

一説によると、彼女は前王シャルル6世の愛妾の一人が生んだ私生児で、シャルル王太子の異母妹であったとも言われます。





そうなると彼女はシャルル6世の血を引く正当な王位継承者・・・。
もし、シャルル王太子のほうが母であるイザボーの浮気の子だとすれば、ジャンヌのほうが真の王位継承者なのです。




あるいは、ジャンヌも王妃イザボーの浮気の子で、死んだことにして密かにドンレミのダルク夫妻に預けられたのではないかとも言われます。そうすると彼女は王太子の妹と言うことになります。



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どちらであってもどちらでなくても、、シャルルが彼女を見捨てたのは嫉妬のためだったかもしれません。味方を鼓舞して勝利に導いたのが、王位を継ぐべく自分ではなく、ちっぽけな少女ですから。



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あるいは、彼女が本当に父王の妾腹の子ならば、その統率力やカリスマ性に、自分の王位を心配したのかも・・・。



彼を自信のない男にいてしまったのは、悪女である母親です。
ふつう、「お前はお父さんの子じゃないから、王位継承権なんかないのよ!」なんていいませんよね^^;;;




・・・どっちにしろ、男の嫉妬も怖いものです。





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タイムで燻したステーキ [Paris 2015]

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ある日のお昼ご飯を食べに行ったところは、ビストロ・ヴィクトワール。
ギャルリ・ヴィヴィエンヌの前の通りプティ・シャン通りをヴィクトワール広場に向けて歩くとちょっと手前にあります。




午後2時、小さな店内はほぼ満席。
あれ?日本人はいないなぁ(笑)

愛想のいいギャルソンが「こんにちは~、英語のメニュー? フランス語?」と英語で。。
あはは。「英語でお願いしま~す」
「はーい。席に案内するね!」


で、昼間からワインがぶがぶ飲んでおしゃべりに夢中のマダムたちのお隣の席へ。
一人は地元の人、もう一人はアメリカ人ね。英語でお話ししています。


叔母がステーキ食べたいというので、とりあえずサラダ1つ、ステーキ2人前をオーダー。



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サラダにコーンのせるのって、日本だけかと思っていました~。
日本人が作ったサラダみたい~。




ここは砂肝のサラダが名物だそうですが、砂肝てんこ盛りで出てくるとレビューで見たので、てんこ盛りの砂肝を食べる自信はまったくないために普通のサラダにしました。
(砂肝、好きじゃないです。食べられるけれどてんこ盛りはムリ!)



サラダを食べ終わったころ・・・


ん?


なになに~???



誰か、葉巻でもやっているの?
すっごくそれっぽい匂いがする!



と思っていたら・・・・





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私たちのステーキのにおいでした!

なんとなんと、肉の上のハーブがパチパチ音を立てて、燃えています!


叔母も私もびっくりです。
じつは疲れていて、メニューもろくに読まずにステーキくださいと注文したので(笑)


「あら、いい香りねぇ~」
「そうね、いい香りだわ」

隣のおばさんたちが英語で言います。


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よく見れば周りの人たちも結構このステーキを食べています。
人気メニューみたいですね。



火が消えると、草が燃えた匂いが。
ところがところが、この燃えカスのようなハーブ、お肉と一緒に食べるともう・・・



最高においしいのです!!
くちの中に広がる香り。



確信がなかったのでギャルソンに訊きました。



「このハーブはなに?」
「ティムだよ」
「ティム? ちょっとここに書いて」
「こうだよ」
「あー!!!」


タイム!!




南フランスから直送なのですって。

とてもおいしくいただきました♡


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6 rue de la Vrilliere, 75001 Paris, France

Église Saint-Roch [Paris 2015]

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サント・ノレ通りにある、結構大きな教会です。
1653~1670の間に建てられた、後期バロック様式です。
太陽王ルイ14世が15歳の時に礎石を置いたのが始まりだそうです。



1763年には、マルキ・ド・サドがここで結婚式を挙げたそうですよ!




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名前は14世紀にイタリアでペスト患者を助けた聖人ロックにちなんでいます。
フランス語ではサン・ロッシュ。





重厚な扉を開けると、ひんやり、涼やかな空気。


フランス革命中は集会の場として使われ、銃弾跡があちこちに残るそうです。
ナポレオンが王党派をこの教会の前で鎮圧したヴァンデミエールの反乱は、字際、この教会の前でという絵も残っています。


かつて王党派の兵士が多く斃(たお)れたサント・ノレ通りに面した正面階段には、ホームレスのおじさんが布団を敷いて寝ていたり(!)、学生たちや近くで働く昼休みの人たちが日向ぼっこしています。




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光がステンドグラスを通って白い石の床にやさしく降り注いでいます。



教会でもお寺でも神社でも神殿でも毎回思うのですが・・・
信仰のための場所って何かしら神聖な雰囲気が漂っていて、敬虔で厳かな雰囲気が感じられます。




私はどちらかというと何の宗教も信仰していないといえますが、それでも人々の心のよりどころとなる神聖な場所は好きです。文化を感じられる場所というのかな、そういうところが好きです。



もちろん、礼儀は守りますよ。
信者以外がしてはいけないルールとか失礼な行為はあらかじめ調べてから行きます!



この教会はサント・ノレ通りから見るよりも意外なほど奥行きがあり、結構大きな教会です。
三重の礼拝堂があり、一番手前のマリアの礼拝室が美しさで知られているそうです。



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一番奥の礼拝室はまるで宮殿みたいでした。






ここには『百科全書』のディドロが眠っています。





コンコルド広場 [Paris 2015]

ルーヴル美術館 → カルーゼル凱旋門 → テュイルリ庭園→ オランジュリ美術館と来て、お隣はコンコルド広場です。


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ルイ15世の騎馬像が置かれていたので、「ルイ15世広場」という名前だったのが、革命ではその孫ルイ16世夫妻や多くの貴族たちがギロチンで公開処刑された場所です。
のちにコンコルド(調和)と改名されました。

(アントワネットがここで処刑されたときの様子は、この下の記事です)




中心に立つのはラムセス2世の治世をたたえたオベリスク。
1826年にフランスに贈られ、1833年にここに建てられたそうです。



てっぺん部分は2500年位前にすでに盗まれていてなかったため、フランスが金ぴかのをつけたのですって。



ここはパリで一番広い広場。



八角形の広場のそれぞれの隅には、フランスの8大都市の象徴である女神像が置かれています。
南北にそれぞれひとつづつある噴水は、海と川の象徴です。



北の噴水は川。ローヌ川とライン川。そしてフランスの農作物である小麦やブドウ。
南の噴水が海。大西洋と地中海を表し、真珠や魚などの海洋産業物も見られます。船がパリを表しているそうです。


『プラダを着た悪魔』では、ここの噴水に主人公がボスからの連絡着信中のケータイを投げ捨てます。「私はやっぱり、この世界では生きるのはごめんだわ!」というような、象徴的なシーンでしたね。




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うーん。
やっぱり写真のセンスないですな(笑)。
うまく撮れません;;;



以前撮った、夕日に染まる一枚がお気に入りです。
エッフェル塔と女神像とオベリスクが入っているやつ。

             
 ↓












ここは女性のスリ集団の活動地点だそうです。
でもね、それっぽいかたがたはいなかったですね。
今回はスリという人々には遭遇できなかったです(ちょっと残念)。




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この、広場に固まっている自転車に乗った人たちは、サイクリングしながらパリの名所を回るツアーのひとたちです。こういうオプショナルツアーは欧米人に人気がありますよ。




さっきまで晴れていたのに、ちょっと雲が立ち込めてきました・・・




さぁ、次は近所の大きな教会へ行ってみましょう~。





ただ、幸せでいたかっただけ。~フランスのおしゃれ番長の最期~ [l'histoires de femmes]

ma6.jpgこんなにも優雅で美しかったのに・・・






exe5.jpg幽閉生活ですっかり面変わりしてしまったアントワネット。



14日にアントワネットを断頭台に送るきっかけとなったネックレス事件のことについて書きましたが、今回はその後日譚です。



1789年に市民が武器庫であるバスティーユ牢獄を襲って、革命が勃発しました。
怒りに燃えた民衆は、ルイ16世一家をパリのテュイルリ宮に身柄を移させました。



そして2年後、国王一家はオーストリアへの脱出を図ります。
手助けしたのはアントワネットの愛人、フェルゼン伯でした。
しかし一家はあと一歩というところで正体がばれてしまい、パリに送還されます。



exe00.jpg幽閉中のアントワネット。




一家はタンプル塔に幽閉されました。
でも、この幽閉生活は一家団欒の平和なものだったようです。
バスタブや豪奢な家具、多くの使用人を持ち込んでいたと言います。
ここから、恋人のフェルゼンに、手紙と金の指輪を送っています。




exe.louisXVI1.jpgルイ16世の処刑。




しかし、革命裁判が始まると、ルイ16世は先に死刑に処せられました。
アントワネットの息子ルイ17世も、革命派に連れ去られてしまいました。



アントワネットは裁判で事実に反する多くの罪状について自ら反論します。
でも、いくら反論しても無駄なのです。
だって革命派たちは、革命のための犠牲として、国王夫妻を民衆の憎しみの対象に仕立て上げていたからです。



exe1.jpg法廷で証言するアントワネット




結局1793年10月15日に、アントワネットに対して死刑判決が下りました。



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ルイ16世に遅れること10か月後のことでした。




exe6.jpg処刑の日の朝。泣いているのは娘です。




翌日、拘束されていたコンシェルジュリの独房で髪を短く切られ、粗末なナイトキャップと粗末な服を着せられて、彼女は馬車ではなく、荷馬車でコンコルド広場のギロチン台まで運ばれました。死に装束は全身白です。



exe8.jpg幽閉先のコンシェルジュリから引き出されるアントワネット。





あまりのショックで一晩のうちに髪がまっしろになった、とはよく言われることですが、
酷いストレスを受けると、短期間で白髪になってしまうことは、本当にあるようです。



exe01.jpg実際の幽閉されていた部屋。コンシェルジュリ。リアルな蝋人形が置かれています。





彼女は動揺する様子もなく、泣きもわめきもしませんでした。
義妹にあてて書いた遺書は、革命派のロベス・ピエールによって長い間隠されていたと言われます。
(でも捨てられなくてよかったです)




exe11.jpg連行中。





荷馬車に載せられた彼女に、憎悪を向けて罵声を浴びせる民衆。
彼女はどんな悪態を投げかけられても、まるでなにも聞こえていないかのように無表情でした。




exe13.jpg”The Affair of the Neckless"でアントワネットを演じているジョエリー・リチャードソンが、処刑台に連行されるシーン






断頭台はステージのように高座になっています。
もと王妃が階段を一歩ずつ上がると、群衆の興奮が高まり、歓声が次第に大きくなりました。



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王妃だったころはファッションリーダーとして、つねに注目の的だったアントワネット。
美しかった面影はどこにも見られないほどにやつれ、容色は色あせた花のように衰えてしまいました。






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有名なエピソードは、階段を上がる途中に死刑執行人の足を踏んでしまったアントワネットが、
「あら、失礼。わざとではありませんのよ」と言ったということです。





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当時、死刑は一種の公開スペクタクルショーのようなものでした。
私たち現代人の常識からすればちょっと理解しがたいことですが、罪人が首を落とされる様を熱狂して見物するということは、古代ローマからよくあることでした。





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14歳でフランスに輿入れした時、彼女は別の熱狂で歓迎されました。
しかし今は、憎悪を一身に浴びているのです。




ところでギロチンというk処刑器具は、罪人の首を木の板にはめ込み、上から三角の大きな刃を落とし、一瞬にして罪人を苦しむことなく処刑するものです。


以前からあった拷問・処刑道具のひとつでしたが、パリ大学医学部のギヨタン博士が、罪人も苦しまずに死ぬ権利があると三部会で主張したために、革命の罪人処刑に導入されるようになったそうです。




・・・そう、このギヨタン博士の名前から、「ギロチン」と呼ばれるようになったのです。




キャップをはぎ取られ、乱暴に首枷に押し込まれたアントワネットは、ひとつの深いため息をついて
おとなしく従ったと言われます。




最期は・・・・どんな死に方であれ、気高く逝こうとしたのでしょうね。







実は、義妹への遺書の中に、



「私には友人たちがいました。彼らとの永遠の別れを思うと、彼らの苦しみを思うことが死にゆく私にはもっとも辛いことなのです。最後の時まで彼らのことを考えていたことを、せめて彼らが知ってくれますように」




と書いたと言います。

「彼ら」となっていますが・・・・これはフェルゼン伯のことをさしていたようです。
彼女が死の間際まで思っていたのは先に無くなった夫ではなく、彼のことだったようです。



三万人の兵が取り囲む処刑台。
それを取り囲む、あまたの民衆。



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ギロチンの刃は特別なもったいぶりもなくさっと落とされ、アントワネットの頭部は籠の中にごろんと落ちました。死刑執行人が、まだ血の滴る首の髪をつかみ、宙に掲げました。



一瞬、静まり返った群衆は、アントワネットの首を見てどっと歓声を上げました。



「共和国、万歳!!」



そうして人波は引いてゆき、興奮もどこへやら、広場は日常へ戻りました。




exe.jpg最後の肖像画。未完成のままでした。





「すべての敵が、私に加えた危害を許します」と遺書にあります。
37歳。




亡骸はごく一部が、革命が落ち着いた後にサン=ドニ大聖堂に安置されました。
(ぞんざいに扱われたため、一部でも発見されたのが奇跡的なことでした)



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その死にざまは、威厳に満ちた、立派なものでした。











✄ฺ--------- キ ---- リ ---- ト ---- リ ----------------


スコットランドのおしゃれ番長の最期はこちら。
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アントワネットの姪で、ナポレオンに泣く泣く嫁いだマリー・ルイーゼはこちら
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Angelina 2 [Paris 2015]

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箱もゴージャス。





私たちのホテルはサント・ノレ通りに面した古いホテル。
4階なので、窓を開け放って机を窓辺にくっつければ、プラヴェート・カフェみたいになります。



下のバーでポットにお湯をもらって、カップを借りてティータイムです。




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じゃじゃーん。

これが有名なモンブラン。


中身は・・・・




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こんな感じです。
お味は・・・まぁ、はっきり言って私の好みではありませんでした。
甘すぎて・・・栗の風味が無いというかなんというか、うーん・・・・。




私のモンブランの好みははっきりしていて、中身がスポンジではイヤなのです。


アンジェリーナは中がメレンゲなのでいいかなと思ったのですが。
そのメレンゲが歯にくっついてくるほどすっごく甘いです。
全体的に砂糖が大量なのかなぁ? 栗ペーストもねちょっと濃厚。




キタイが大きかっただけに残念☆



いや、もちろん、ほかの人にはめっちゃおいしいのかもしれませんよ。
でもなぁ、やっぱり地元の笠間栗を使ったとあるケーキ屋さんのモンブランのほうがはるかに好きだなぁ・・・。






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でもでも、こちらのイチゴのケーキは正解。



甘すぎず甘酸っぱさもイチゴの風味もあって、ムースの硬さもさすが。
スポンジは紅茶風味だったかなぁ。
とてもおいしかったです。



通りを眺めながら叔母とゆっくりとお茶しました。
人間観察はとても楽しいです。



部屋ならば、誰かのたばこの煙で喘息が起きることもないので(笑)



時間は午後7時くらい。でもまだまだ、そとは明るいままです。


Angelina 1 [Paris 2015]

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ルーヴル美術館からテュイルリ庭園のほうへリヴォリ通りを歩いていくと、そのお店はあります。



パリで一番古いサロン・ド・テ、 アンジェリーナ。
1903年にオーストリア人のパティシエが開いた店が元祖。
彼の娘の名前をお店の名前にしたそうです。





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ヴェルサイユ宮殿内にも支店ができました。



ゴージャスな雰囲気のキラキラした店内でもやはり一番目を引くのは、ケーキのショウケース。
伝統的なケーキを見ているだけでも宝石を見ているようで楽しいです。






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レモンタルトおいしそう!
オペラも捨てがたい。
ミルフォイユもいいなぁ・・・

丸い真っ赤なケーキはフランボワーズ、目だけでも甘酸っぱそう!




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店内はアフタヌーンティの時間帯、大混雑!
ケーキを買うのも大変です。
今回は店内ではなくお持ち帰りにして、ホテルでゆっくりいただくことにしました。




アンジェリーナと言えばモンブラン。
世界中からこれを求めて人々が来店するそうです。
ものは試しに、モンブラン1つ、そしてのこり1つだったイチゴのムースケーキを。




叔母と半分こずつすることにしました。
2つで13.90ユーロ=1870円。





なんともいいお値段です。
店内で食べたら2,3千円はかるく超えます・・・・


ちょと見てみると、マダムたち(メダムか)、お皿に2,3種類のケーキがのっています。
ほほう~。



ユーロって高い;;;;





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Angelina
226 rue de Rivoli, Paris

光の美術館 [Paris 2015]

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オランジュリ美術館は、もとオレンジの温室だっただけあって光の演出が素敵な美術館だと思います。


でも、絵が痛んだりしないのでしょうか?

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ルノワールの作品も多く展示されています。



中でも私が好きな作品の一つはこれ。


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『ガブリエルとジャン』。
ルノワールの次男ジャンは、のちに俳優・映画監督になっています。
赤ちゃんのころのジャンと、ルノワールの妻のイトコで家政婦をしていたガブリエル。
色彩がどうとかより、ガブリエルの優しい愛情に満ちた感じと、ジャンのあどけないいかにも赤ちゃんな無垢さが好きなのです。





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これも、




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これも有名ですね。特にこの少女たちの絵は、同じ構図がオルセーとメットにもあります。




ちなみに、ルノワールの妻のアリーヌは数多くの作品のモデルを務めましたが、「私は若いころは痩せてたのよ」とよく言ったそうです。でもね、作品を見ればバレちゃうでしょうにね?
『田舎のダンス』を見ると、若いころからふくよかでしたけど(笑)



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ルーヴルは人がいすぎてゆっくり見ているようではなかったけれど、オランジュリはなんだか落ち着きます。



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まぁ、結構エピソードが衝撃的だなと思ったものはこれでしょうか。
       



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ローランサンの描いたココ・シャネルの肖像。

当時、貴婦人たちの間では彼女に肖像画を依頼するのがはやっていました。
シャネルも依頼したのですが・・・・


完成した絵を見て「いらんわ」と、ローランサンに返品したという、これです。



絵がいけないというわけではなく、シャネルの性格からしてこんなパステルのタッチがこのみではなかったのでしょうね。似ていると思うけれど。
ならばなぜ依頼したのでしょうねぇ?




いつもタイミングが合わなくて来られなかったオランジュリ。
やっと来られて本当によかったです^^








***********************






roseさんからの宿題・・・。


見つかりませんでした。


『春』がタイトルに入っているのはこの2点でした~。
すみません~


Spring at Catou_R.jpg







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a.HesiodListening to the Inspiration of the Muse.Edmond Aman-Jean.small.jpg

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