SSブログ

もう一つのホロコースト [なんちゃって博物誌]

roma11_R.jpg


ロマの人々に対する「ポライモス」。

それが、もう一つのホロコーストです。

ホロコーストと言えばナチスのユダヤ人迫害がすぐに浮かびます。
すべてを焼き尽くす、という古代ユダヤ教の生贄を火の中にくべる儀式が語源だそうです。

ヨーロッパ社会においてキリスト教以外の宗教を信仰する民族、特に人が羨ましがるような
生活水準で暮らすユダヤ人は、嫉妬と憎しみから19世紀後半に、最もひどい迫害を受けました。

異質な存在としてなら、ロマもまた同様でした。
定住せずにあちこち移動してその日暮らしの生活を送る彼らは、社会の脅威でした。
ルールに縛られないことは、ルールを守る大多数にとっては煙たい存在になります。

地方による度合いはまちまちですが、ロマは奴隷のように扱われたり、市民よりも高い税金を課されたり、差別されたりと、ひどい扱いを受けてきました。

roma20.jpg



20世紀になって「人種」という考え方が現れ、「優秀な」人種とそうでない人種が分化されました。
枢軸国であるドイツ、クロアチア、ハンガリーは、ロマ絶滅作戦に乗り出しました。

roma1_R.jpg


ロマの女性たちは早婚で多産でした。
だからロマ人口を増やさないために、彼女たちに不妊手術を施すというようなことを行っていた国もありました。


定住しないものは国外退去。
公共の場への入場禁止。
耳の写真を載せたIDの絶対携帯義務。
(耳の形で個人を特定するためとか)


国家社会主義労働党、いわゆるヒトラーが率いるナチ党は、反セム主義を掲げてユダヤ人を迫害しましたが、この時にロマもともに劣等人種として迫害の対象にされました。

roma0_R.jpg


あら・・・? ちょっと、おかしいですね。
だって、ロマはもともとはインド北部を起源とする、アーリア人種ですよ?
ナチの好きな、アーリア人種。なのに、迫害されたのです!

ナチのこじつけは、「放浪を続けるうちに劣等人種との混血を繰り返した、生きるのに値しない命」だそうで。
アーリア人との同質性を損なったから、ドイツから追放したかったのですって! ばからしい!


ユダヤ人とともに彼らも収容所で虐殺されました。恐ろしくおぞましい人体実験も施されました。
ナチによって2万人が虐殺されたと言われますが、もっと多いかもしれません。
戦前ヨーロッパには95万人いたロマが、戦後には25万人に減少していたそうですが、流浪の人々なので、定かな数はわからないようです。


アウシュビッツでの壮絶な体験を語る生き残った人々もいますが、本当に非人道的なひどいことをたくさんされたそうです。

roma8.gif


現在のヨーロッパには、120万のロマと、シンティ(別の流派のロマ)がいます。
1971年には第1回国際ロマ会議が開かれ、彼らの旗も決められました。

ロマ出身やロマの血を引く国会議員や芸術家、音楽家、俳優などが多く活躍しています。
「ロマになりたい」と、楽しそうな面だけを見て夢見がちなことを言う、脳内お花畑の人が増えてきたことは、憎み差別する人が増えるよりははるかにマシですが、差別がなくなったわけではありません。

roma19_R.jpg


いまだに、平均寿命は50歳未満。
ユーゴやルーマニアでは30歳くらいだそうです。


各国各地で、まだ偏見による差別や迫害は続いています。
突然、家を襲撃されて燃やされ、破壊されるロマも多いそうです。


襲撃され、家を破壊され、かつての我が家であったがれきの中で呆然とたたずむロマの一家の写真が、忘れられません。そんな写真はピューリッツァ賞にはノミネートされないかもしれないけれど、ずっと心に引っかかり、忘れられません。


嘘つきだ、泥棒だ、詐欺師だとさげすむ前に、考えなければならないこと。
差別する側が、いったいどれだけどんなところが、他よりも「すぐれて」いるのかということ。
さげすむことで、そのような劣等的なステレオタイプを与えることで、彼らを型にはめ、そうならざるを得ない状態にしてはいないか、ということ。

roma7_R.jpg


偏見や侮蔑、貧しさを強いることからは、何も向上するものは生まれません。不毛なだけ。
「同情」も間違っています。それもまだ、上から目線だから。
持てる者が待たざる者に手を差し伸べて、差別をやめて寛容になることが大切です。



何百年も差別され続けてきたから、いきなり差別をなくすのは無理かもしれませんが・・・



偏見の壁を崩して手を差し伸べなければ、21世紀も22世紀も、不毛な差別は続くと思います。



~のほう。

私の嫌いな日本語。

それは、コンビニ・ファミレス言葉



「~のほうですね?」

「ほう」という形式名詞は、まったく必要ないです。
これに過去形の助動詞がつくと、余計に意味不明です。


「〇〇のほうで、よろしかっですか?」


はぁぁぁぁ~??


なぜ、過去形?
ちゃんとした名詞を使いながらなぜその直後に形式名詞?


一度注文が完了した物を、もう一度確かめに来たわけでもなく、
一度目の注文でそれを反芻してお客に確認するとき、こんな風に言う人がたくさんいます。


でも、これ、こう訊かれると、すごく気持ち悪いんです。
この前、テレビでアナウンサーの女性がこの「名詞+~のほう」をさらりと使っていました。
すごくびっくりしました。

言葉を仕事にしている人が、公共の電波で「~のほう」を使ったから。
いや、形式名詞を使うこと自体は間違いではないですね。
でも名詞につなげて形式名詞は、はっきりいって、形式名詞を用いる意味はどこにあるの?

「ピラフのほうでよろしかったですか?」と訊かれたら、思わず、

「は?」とびっくりしてしまいます。
今はじめて注文したはずなのに、ワタシ、前に注文していましたっけ?みたいな。



「~からでよろしかったですか?」


これはお金を払うとき、レジで言われます。
これもわかってはいても考え事をしていたりぼーっとしていたりすると、思わず「は?」と
訊き返してしまいます;;;;


「1000円からでよろしかったですか?」=「ホントに1000円で清算するの? ホントに?マジで?」

みたいな?(笑)

いや、冗談ですけど、なんだろう・・・・もっと払わせたいわけ?
あるいは、ほかのオプションを示せと?  みたいに違和感が感じられます。


「これ以上、だしませんよ!」と言いたくなってしまうのです(笑)



言葉は変遷していくのがいつの時代も普通の現象ですし、
多数派が使えばもとは間違いでも正しいとみなされていくようですが、
それでもこの手の言葉はとても気味が悪いです。


私的な見解ですが、日本人はあいまいさを美徳とする民族性があって、そのうえ、現代社会では
他者とのコミュニケーションに消極的な人が多いために、言葉による衝突を避けようと
無意識な遠慮と言うか何かが働いて、ストレートに言うよりも曖昧さを加えたほうが
関係をスムースに進める・・・というように、思う人が多いということなのでしょうか?


日本は、カスタマーサービスなどに電話で問い合わせしても、ほしい答えをもらえないことがあります。
会社の規約ではっきり言ってはいけないとか、オペレーターに言われたことがあり、「誰にもほかの人に言わないから、どうかどうか、はっきり本当のことをいってください、ここだけの話で!」と説き伏せて、やっと知りたい答えを言ってもらえるまでに5分くらいかかったこともありましたっけ(笑)→実話です


簡潔に、明解に物事を伝えられない民族性は、国際社会では奥ゆかしさとはとらえられず、
むしろ「わけわからん、不気味、言ってることと本心が違って信用ならない」としか思われないです。

人間関係をうまくいかせたいから、が一番の理由だとは思うのですけど。
はっきり物事を言えば、
「あのひとって、キツいよね」とか「はっきり言い過ぎだよね」と陰口をたたかれることを
恐れることもあるのかもしれません。

私など、本音と建前を使い分けるのは面倒なので、ホントの事しか言わないし、
気に入らないことは気に入らないと言ってしまうし、嫌なら周りに同調しないし、
曖昧なことを言われると「それってこういうことですか?」と「本音直訳」して理解しようとするので、
「はっきりしすぎてきついよね」と言われたこともしばしばありました。

でも今は、周りの人たちはわかっているみたいで、私の事は「ホントのことしか言わない人」と思っているようです(笑)


でも、コンビニやファミレスで、はっきり言わなくてどうするの?
というか、あいまいに言う必要性がわからないです。

お金や商品をやり取りする以上、はっきり言ったほうがいいではないですか?
たぶん、モンスターカスタマーみたいな超勘違いの横柄な客を恐れているところもあるのかもしれないけれど。



時々、コンビニの店員さんの言っていること(たぶん、いろいろなマニュアル的なこと)が早口すぎて聞きとれなくて、3回くらい訊き返してしまうことがあります。すると店員さんはふっと苦笑して、こいつ日本語わからないんだなという感じで、「サンキュー!」と言ってきます。

いえ・・・日本語ネイティヴなんですけどね、わたし・・・


JK用語やネット用語など、使用者がカテゴライズされているような特別な用語は、別に困らないです。
自分がユーザーでない限りは、もし理解できなくとも、日常で困ることはないので。


でもこういうイラッとくる言い回しが一般化してくると、なんか残念におもいます。
接客用語こそ、美しい日本語であり続けるべき。

それが日本人の「お・も・て・な・し」の精神を表すのではないのでしょうか?



この前、中華料理店の店員の中国の方が、すごく日本語がお上手でしたが、会計時に
「1000円からでよろしかったでしょうか?」と言った時には、かなりびっくりしました。
彼ももはや日本のダメ文化に毒されてしまっているのね・・・・



オリンピックまでに、外国語を覚えることも前向きで素晴らしいと思うけれど・・・・
接客用語も、美しくあって欲しいと思うのです。
a.HesiodListening to the Inspiration of the Muse.Edmond Aman-Jean.small.jpg

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。